サントリーホールにN響のコンサートを聴きにいった。現代の古典をのどごしよく聞かせてすばらしい演奏会でした。
この日の指揮はフィンランドから招聘したディマ・ソロボデニュークさん。五十歳の手前という年齢は、オーケストラ指揮者の世界では将来有望とされるよう。
演目は前半にチャイコフスキーのバイオリン協奏曲。ソリストはニキータ・ボリソ=グレブスキさん。こちらは四十歳の手前で、しかし器楽奏者は指揮者と違ってキャリア開始が早いからもうどっしりとした達人の域なのでしょう。
後半にはプロコフィエフの後期のバレエ音楽「石の花」と、渡米したストラヴィンスキーの「3楽章の交響曲」の二本立て。第二次大戦のなんとか終わったあと、ロシアの音楽家が東西にわかれて構想した音楽のショーケース、みたいな趣向の、稀なプログラム。
颯爽としていました。甘くもしすぎず、渋くもない。格好をつけすぎているというのでもない。前半のチャイコフスキーを「みんなが好きな味付け」に寄せすぎているとおもわなかったし、後半のプロコフィエフとストラヴィンスキーからは「みんなが苦手な味付け」を感じさせないように、飽きずに聞かせられました。飽きさせないことこそが技巧といえるかもしれない。
ピアニストの小曽根真さんのインタビューのビデオをこのまえみた。ジャズピアニストからコンサートピアニストに幅を広げるときに、まずプロコフィエフのピアノ協奏曲の稽古をしたことを話して「彼はジャズの語法を持っているといわれていたので」と思い出を話していた。ジャズにどっぷり浸かっていた時代の小曽根さんにとって古典への扉をひらいた作曲家、それがプロコフィエフ。ソ連にありながらアメリカ音楽を古典音楽に組み込んだひと。そういうイメージ、これがぼくにとってさきにあった。
たしかにそう聞こえるところがあっておもしろい。いかにもサックスが吹いてもおかしくないような、でもそれを管弦に鳴らさせると新鮮なシンコペーションのつかいかた。リズムをいたずらにスイングさせないでいるから、どことなく新しくも、どことなく締まった感じ。アメリカを前景に感じさせないで、でもアメリカの発明がすこしまぎれこんでいる。結果として、土俗に閉じこめられない広がりがある。そんな気がした。音楽に説得力をあたえてすばらしい演奏。
ストラヴィンスキー「3楽章の交響曲」は、いったいどういう構造をもっているのかよくわからない。むずかしい作品だとおもう。センチメンタルな要素はほとんどなさそう。それにもかかわらず、退屈もせずにじっくりと聴いて、最後まで振り落とされずに駆け抜けたという後味がある。どこにどんな足場をつくって集中力を持続させることができたのかは自分でもわからないままだ。およそ言語化しようもない、いくらか超越的な体験だったかもしれない。なにがすばらしいのか自分のことばで語り直すことができなくても、たしかにあれはすばらしかったとただ思い出すだけの経験は存在する。そういう経験に気づきなおすことこそめったにないことであったともいえそうだ。