水曜日の午後に新国立劇場でオペラをみた。ロッシーニの『ウィリアム・テル』のフランス語による上演をみた。

好きになることのできない作品だった。胸を悪くさせる時間だったし、単にプロダクションだけの失点でもないとおもう。

歌手の技量、これには疑いはないようだ。ドラマの説得力、これはいちじるしく低い。キャラクターが弱い。

ウィリアム・テルにはカリスマがない。カリスマがないから、いくら活躍しても右翼のやばいおじさんがこじらせた妄想を実現させていく惨めな話の後味になってしまう。

盟友のアルノルトもそう。禁じられた恋に悩んで葛藤できるだけの人間性があったはずなのに、父の死を聞くなり、奪われた起源への叶わぬ愛を爆発させるだけの機械人形になる。情けない。

その恋の相手のマティルドは、あいまいな父性への愛に負けた虚しい悲しみを天衣無縫に歌いあげる。すさまじいアリアだったけれど、その爆発力は悲劇というより歓喜に向いてしまっていた。

いろんな筋書きがお約束ごととして通り過ぎて、形式的なシンボリズムだけが感情を示すことになっていたようだ。それでは薄くもなる。作品に力がないから、視覚的な挑発に逃げざるをえない。安い挑発をしなければ説得力を保てないほどの作品だ。絶対的に悪いオペラ上演というものが音楽の質とはかかわりなく存在することは噂にはきいていたけれどこの日がそうとは予期していなかった。

それを受け取りにきたオーディエンスの質もひどいものだった。なんにでも万雷の拍手をして、ゴミを拾い食いしても味がわからなくておいしいといっているみたいだった。作品に陶酔するのは悪くいわないけれど、なにかと自己愛を主張せずにはいられない厚かましさにみえてげんなりした。

おかしな予感は冒頭からうっすら感じていたのだ。序曲が終わるなりおおきな拍手が起こるのにぎょっとした。ええ、これはまだ序曲ですよとおしえてあげるひとはいなかった。ぼくは昔いったスカラ座で、楽章間に勇み足の拍手を打ちはじめてしまったひとりのおじさんに向けてホール中から一斉に「シイッ!」と鋭く手短な非難が飛んだのをおもいだしていた。もっとも、ここでは上演の種類も違うし、ルールも違っているのかもしれないとおもって、浅ましいのはこちらかとおもいながらも努めて忘れることにした。

第三幕のなかほど、圧制者が平民をひきずりだして、グロテスクな踊りをさせた。そのうち国家による強姦を示唆しているとしか思えない表現があらわれた。不愉快な気持ちだった。しかし怒りをもよおさせることを演出が企図したならそれは成功している。演出家からの挑発。これに対して観客はどう反応するんだろう、そうおもって踊りが止むのを待った。

なにが起こるか。大拍手が鳴ったのだ。気分は最低を突き抜けて地下深くにめりこんだ。いくら不愉快でもブーイングをする勇気はぼくは持てないだろうなとおもって静かにするはずだったが、強姦よりも、強姦に歓声をあびせる観客に向けておもわず「ノーノーノー」と声をあげてしまった。とはいえ、三つとなりくらいまでしか聞こえない声をだしたくらいのこと、それだけだ。

文句をいうよりもたのしく手を打ってブラボーと叫んでいるほうが有意義な時間を過ごせているとはぼくもおもう。たのしむことのできなかった自分こそ浅ましいと呪って反省しよう。でもきょうだけはもうすこし話して、それでさっぱり忘れるようにしよう。

この作品は古すぎる。ナイーブなナショナリズムの主題が古すぎる。排外主義のもたらす陶酔、古すぎる! 序曲だけを残してほとんど忘れられた作品。パリでさえ二十世紀初頭の上演を最後に封印されてごく近年まで再演されなかったらしい。

蘇らせようというのは結構なことだが、どうやらアナクロニズムにしかならないようだ。バッハ蘇演のようにはいかないようだ。時代が正しく忘れたものを蘇らせて、うまくいかせるのはむずかしい。蘇らせてみたらゾンビでした、みたいになっている。

百人、千人にひとり、なにか重要なモチーフを受けとることのできるひとがいるなら、そのひとのために蘇らせてみるのは素晴らしい事業といえるだろう。でもぼくはそのひとりになることはできなかった。それだけのことといえばそれだけのことだ。やってみなければなにがでてくるかわからなかったことでもある。失敗だって大事な試みだ。

芸術的には下の部類だろう。革命のほとぼりが冷めて反動化していたパリのどうしようもない停滞感を確認するための生々しい資料にはなっていそうだ。みためは壮麗なヨーロッパの宮殿を見学したら、没落貴族のただつまらないだけでなく、おそろしく趣味の悪い生活のありさまをみてしまった。そんな気分だ。

同じ時代に隣の文化圏にはベートーヴェンの交響曲があった。バッハが再発見された。シューマン、ワグナー、新しい風が吹いた。それにくらべてパリのこの堕落ぶりはどうだろう。ナショナリズムのダンス。国家事業としてのオペラ。ブルジョワたちの劣情。悪い部分が苦いジュースになっちゃっているんじゃないかな。そう意地悪におもってしまった。

翻って、ここから半世紀を耐えてようやくラヴェル、ドビュッシー、サティがあらわれることをおもって、これらの音楽家が壊さなければいけなかった虚像のおおきさをおもった。そうやってのちの時代を知った耳をかたむけると、このフランス産のオペラは長いだけでちいさい。あまりにちいさい。

文化的没落、反動化、停滞と閉塞、排外主義、そして安い陶酔。これらの状況下でパリを熱狂させたものが二世紀後に、東アジアで没落中のメトロポリスを熱狂させた。そうみるならば、ひとの浅ましさは変わらないというやはり安い警句くらいしかそこから得られるものはないようだ。