金曜の夜、NHKホールをおとずれた。緊張感と集中力を手放させない演奏で、もともと高かった期待のずっと上をいく素晴らしいプログラムにたちあえたとおもった。

キャリアのある好指揮者をN響がいよいよ招聘して定演に初登場、という触れ込みでオロスコ=エストラーダという名前が呼ばれているのをみた。ジャーナリズムに疎くて知らない名前には、リーフレットで読んだプロフィールと指揮台にのぼった佇まいとをあわせてやっと気がついた。フランクフルト・ラジオ・シンフォニーをこのひとが振る映像をいくつもぼくはみたことがあった。印象的だったんだろう、音に酔うような身振りをみせていたのをよくおぼえていた。コロンビアのメデジンの出身、教育とキャリアはウィーンを拠点にして積んで、いくつも音楽監督とか首席指揮者のタイトルをもっている。

まずワグナーの「タンホイザー」序曲。これを聴くことをたのしみにぼくはやってきた。単にすきな曲であるというだけで、たいしたこだわりは実のところないのかもしれない。演奏には文句のつけようもない。それもこだわりがないからかもしれない。とはいえ、文句が先にやってこないのは幸せなことでもある。しずかにしみいる冒頭の木管のメロディが最終面で回帰して、金管におなじメロディを吠えさせると、しみじみやるせなかった孤独の音がそのまま、苦しくも生きる力強さの音にまっすぐ接続する。平凡がないところに超越はない、みたいなところがぼくは好きなんだろう。期待したとおりの、というと予定調和のようにもなるが、オーソドックスを踏み外さない統率力といってもいい。安直さはなくて、白熱はあった。

次いでヴァインベルグの「トランペット協奏曲」で、ソリストはラインホルト・フリードリヒさん。ウィーンでなくドイツからの来日で、こちらがフランクフルト・ラジオで首席奏者を努めたのはオロスコ=エストラーダさんが台頭するよりもひとむかし前のことだ。大御所のカテゴリにはいるプレイヤーとなる。指揮者と連なってステージに登場すると、もともと小さな楽器がよりちいさくみえるほどの巨躯、カールして長い白髪は古式ゆかしい音楽家そのもの。協奏曲はトランペットが速く技巧的なひとつの音型を連打するのに導かれてはじまる。調が薄くなったり揺らいだりするのに深刻さがあるようで、アイロニーにすぎないようでもある。しかし諧謔一辺倒ではたゆまない。奏者が尋常ならざる熱量をラッパに注ぎ込んで爆発させているのがみえる。それにオーケストラも同調するから、録音で聞くとユーモラスに聞こえた作品に手遊びや現実逃避の色はなくて、危険の暗示、警鐘、というような音楽に聞こえたものだった。これもまた集中力を要求して強靭なパフォーマンスだった。

休憩をはさんで、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」となる。音楽の外のアイデアに意味づけられない形式の音楽を提示しようとして、筋肉質な演奏と聞こえた。感傷は安易なほうにも深刻なほうにも向かわない。ずしんとくる重苦しさがないといえば物足りなさとなるが、そうともならない。ほんのいくつかの録音しかぼくはコンサートまでに聴いたことはなかったけれど、ピンとこない演奏とくっきり聞こえる演奏がはっきりとわかれていた。これはおもしろいとおもえた演奏は、レニングラード・フィルの演奏よりもウィーン・フィルの演奏だった。そしてウィーン仕込みの指揮者のパフォーマンスを聴いてふたたび好ましくおもったことになる。各楽章、楽器を替えて繰り返すモチーフがどこに隠れてどう飛び出してくるのかがよく分離してびっくり箱みたいにおもしろく聴いた。第三楽章だけ、もともとの理解が進んでいなくて途中でいまどこにいるのかわからず迷子になってしまったけれど、それで退屈させられることはなかった。

緊張感を持続させる力が始終はたらいていたとおもう。演奏が終わったあとに、なんとなく作品の構造なり、強い動機なりがわかったような気になって帰る。そう導くことができるのがきっと指揮者の技量だった。