NHKホールで山田和樹さんの指揮するN響をきいた。

プログラムはフランスに軸をおいて20世紀初頭の作品を点描する。バルトークだけフランスの外、ハンガリーの作曲家で、ナチスと距離をとってアメリカにわたり、アメリカで没したというのを知った。

ラヴェルの「優雅で感傷的なワルツ」が後半の一曲目にかかって、ぼくはこの日はこの作品が中心にあったと感じた。このワルツ連作の最終曲は、それまでの狂熱からはなれて静かに締めくくりに向かって歩く。ぼくはいくら録音を聴いてもそこにとっかかりがつかめなくて、いつも最後に「とらえそこねた」と喪失感が残される。ホールで高まった集中力をもって聴けばなにかあたらしいものがつかめるのでないかな、そう期待したのだ。でもやっぱりつかめなかった。むずかしかった。なにか重要なことがその最終曲で起こっていないはずはないとおもうのだけど、うまく聞こえなくて、聞く耳の力量不足のさみしさがあった。

その他のプログラムは、ルーセル「バッカスとアリアーヌより、組曲第一番」、バルトーク「ピアノ協奏曲第3番」、ドビュッシー「管弦楽のための映像、イベリア」のあわせて四曲。それぞれ起伏のなかに明るさがあって、陽気なところほどよく反応してたのしく聴きつつ、なんとなく大事なものを聴きのがしたようにそわそわしてもあった。

音はいつも鳴ったとたんに過ぎていくだけだから、たしかにこの音をすべて肉で受け止めたなんていうことはできないとおもったほうがいい。本を読んで、すべての文字を並びどおりに記憶することができないが、それで本を読めていないはいわないように、音楽を前にしてすべてを聴いてやろうとおもうことこそ、空想、夢物語のたぐいだろう。ではいったいなにを聴こうとして音楽に誘われるのか、ということもまた、それを考えすぎて気を狂わせるまえに止めておくのがよさそうだ。まったくなんの話やら、脳みそがおおきくなりすぎるのも困りもの。