秋晴れの土曜日に秩父にツーリングにいった。二週続けての遠出は、週末は雨という予報が直前になってひっくり返って、急に晴れることが決まった金曜日の夜に決めた。

秩父。都心から近すぎず遠すぎずの距離があって、日帰りか週末の旅行なら池袋から西武線の特急にでも乗れば手軽に気分転換を味わうこともできる。道路を走っても素晴らしい行路であることはバイクに興味をもつようになってから知ったのだった。

目的地は「焼肉レストラン東大門」でわらじかつを食べることとした。その帰りに周辺をみまわって、紅葉の山なり、峠道をとおってこようと計画した。深い山とまでいかなくとも、山あいの街のイメージであるから、冬になったらなかなかバイクでおとずれることはできまい。秋のうちに、できれば紅葉の見頃にいってみたい。そうかんがえた。

いつものように未明に起きて、日の出といっしょに家を出る。練馬から関越道、これはあんがい初めて乗るコースだ。おなじ時間帯の中央道よりもずっと混んでいる気がする。早朝に出てもしっかり渋滞につかまって、ほんらい狭山まで高速道路で進むはずのところ、川越で降ろされて一般道を通っていく。入間川をわたって飯能へ。

川越日高線の、カワセミ街道と交わるところのセブンイレブンでひとやすみ。いなり寿司を食べて缶コーヒーで手をあたためる。店舗の脇によく整備されてきれいなベンチがあって、そこでやすんでいたらあとからバイク乗りのおじさんがひとり、もうひとりと乗り付けてくる。そして「おつかれさまです」といって歓談がはじまるのに、ぼくも末席に連なって、というようにはいっている。こちらはほとんどすべての固有名詞の意味がわからないでいるときに、あちらはよく通じあっているようすだ。そのうちもう一台、もう一台とバイクが集まってきて、どうやらこのひとたちはこのあたりの地元の同好会グループのようだ。五十代から七十代くらいまで散らばって、先輩後輩の関係があるようで、どうりで仲がよさそうにもみえて、じゃれ合っているというほどにべったりしていないようにもみえる。

ヤマハのセローに乗って、いちばん最初に到着していたひとがいた。年季のはいった革のウェアをまとって、すこし威圧感もある。このひとがどうやらいちばんの先輩格だ。七十五になるという。バイク歴は、なんと六十年。若いといわれるには年を取りすぎたとおもうことも増えたものだが、この方からしたらぼくはたしかにどうしようもなく若い。バイクに関して知らないことはないんじゃないかというくらいの厚みのある話を聞かせてもらって、ただただ拝聴、というぐあいだった。詳しくは聞かずにしまったけど、どうやらプロの手のひとらしい。

免許をまだとったばかりであることを話すと、右直事故はほんとうにあるしいくらでも注意をはらうようにと諭された。「ところで」とこちらの車種をたずねられて、カワサキの ER4n と答えた。「それはそれは」といって見る前から特徴を言い当てられて、どうしてこんなになんでも知っているんだろうと畏怖するおもいがある。しかしこの目でみるのははじめてだから見せてほしい、写真も撮らせてほしいといわれて、よろこんで撮ってもらった。その写真をブログに載せてもいいかと丁寧にたずねられもして、ブログ名をおしえてもらって、よろこんでと応じた。同好会のほかの方々も、ぼくのバイクをみるなり特徴を言い当てたり、ぼくの知らない個性をぼくの知らない語彙で語ってくれたりして、とにかくこの乗り物のことが大好きでしかたないことがひしひしとわかる。それはすばらしい熱さ。

知識も経験も浅いからとおもってすこし遠慮してしまったけれど、もっといろいろ聞いて教えてもらえばよかったなとおもう。聞けば教えてもらえたともおもう。フレディ・スペンサーって誰ですか、なんて聞いたら怒られるかなとおもってしまったけど、たぶん怒るようなひとではなかったでしょう。記憶を美化してそう想像しているだけかもしれない。でもぼくにとっては大先輩からの秘技伝授のようなおおきな遭遇だった。この乗り物に乗ることはそれがいちばんのたのしみであるが、乗ることのほかにもたのしみかたがたくさんあるということ。

すこし惜しい別れのあと、国道を秩父に向けてくだる。ほとよく蛇行して、ほどよく交通量もあるのんびりした道を走っていって、その途中にある秩父御嶽神社に停まってみることにする。紅葉がうつくしくて、しかも過剰にひとが集まらないのがいいらしいと聞いて。しかしもみじ祭りには二週間はやくて、カエデはまだ青から黄に変わるくらいの色づき。代わりに年中変わらない東郷平八郎の像が立っていて、それについての生前からの神格化をもうしわけなくおもったその軍人が固く辞退するのを説き伏せてとうとう建立に至った、除幕式には海軍中将のだれそれが臨席して、勇ましい号令のもと東郷平八郎像はこの世に姿をあらわした、というエピソードが述べられている。本殿は急な階段を数百段ものぼったさきにあって、ひとまずふとももをパンパンにして登りきって、すこしやすんで引き返してもどってくる。冬用のバイクウェアでは汗をかいてしまって、防風装置をとりはずして風をとりこみやすくしてから再出発した。

秩父の手前、国道からの出口あたりから渋滞でとまりがちになって、市内は市役所と御花畑駅をよこぎる。市内はほどほどに、すぐ反対側の郊外に出て、ミューズパーク方面と書いてあるのをその方向に折れたあとは、あたたかい日差しのなか気持ちのいい丘をのぼって、林のなかのびる道をかきわけて、川沿いの橋のあるところを橋とは別の方向に折れて進んだのを断片的におぼえているだけで、いったいどの道をとおったのかは振り返って地図をみてもわからない。気持ちよく走っているうちにあっというまに小鹿野についた。

小鹿野についたら「焼肉レストラン東大門」はすぐにあって、混雑してはいるが待ち時間なし。注文も提供もするすると済んで、ぺろりと食べるまでもあっというまだった。わらじかつはシュニッツェルみたいに薄切りのとんかつ風、食べ応えがあるというためには肉が薄いようにもみえるのだけれど、ペラペラとはとてもいえない厚さがあって、では衣ばかりでベタベタかというとそうでもない。見た目に反していやな胸焼けを起こさない。たれをしみさせてあるからサクサクはしないが、いやにビシャビシャというのでもない。おおきなとんかつくらいの想像ではじめて食べてみて、その想像の先入観とはだいぶちがっても独特なおいしさのメニューだった。

皆野両神荒川線、という交通量のすくないのんびりした道。国民宿舎や日帰り温泉つきの道の駅をとおりすぎて、林の舗装された道ぞい、砂利と雑草のあるところでいちど停まった。御嶽神社にのぼったときに暑いとおもって一枚ぬいだのが、すずしい風をあびてすこし寒いともおもって、装備しなおした。道路はひろいけれども交通はすくなくて、たまに通るのはソロツーリングのバイクというぐあいにみえた。おもいおもいのたのしみ。

どんつきで秩父往還にはいる。荒川渓谷に沿って奥秩父にはいっていく道。紅葉シーズンで混雑しているとおもえば混雑しているようにもみえるし、もっとひどく混雑しているとおもったのが意外と空いているとおもえばそうにもみえる。どちらにしても長い長い一本道で、地図でみて想像したよりもすべて遠かった。もっとあっというまとおもったものが、ひとまわりもふたまわりもスケールのおおきいものにみえて、かえってこちらはちいさいなあと黙って車の列にしたがっていくと、不意に「ループ橋」という表示がみえて、あれよあれよというまに天空を横切る巨大構造体のうえにはこばれて、谷をさえぎって立つダムの隔壁を向こうにのぞんで、森と谷をまたいでぐいっとわたるおおきな爽やかな道を走った。自然のなかにあっていちじるしく異質な人工物、巨大橋、そういうものを崇めずにいられなくなる気持ちにすこし通じることができた気もした。ループ橋を駆け上がったところの滝沢ダムで小休止。秋の日射しでダム湖は濃い青だった。

さらに奥の中津峡に向かって、国道から県道へ、県道から市道林道へとわたっていく。だんだん暗くなっていくのは日没のせいでない。山はたかまり森はふかまるから暗くなるようだ。空は快晴でも湿り気さえ増えている。細くちいさなトンネルを通れば、その壁はごつごつと波うっていて、だんだんと人の手の支配力がさがってきているよう。林道との分岐点で県道は通行止めになっていて、かえってそのおかげで迷わず林道にはいっていくことができもした。中津川林道というその道の舗装されている上限のところに公園がある。ここにタッチしたのがこの日の到達点となった。

斜めになった日射しが谷に射すと、白い光線が暗い影をするどく切って注いでいるのがよくみえる。森は黄色くいろづいているが、明るい光で満ちた世界というよりは、黒くなりはじめた底しれない自然がかろうじて人間の世界と接して、その入口にすこしだけ光をあててぼくたちはのぞこうとしているよう。森林科学館で、本多静六と平賀源内がそれぞれ秩父とどう関わったかを紹介する展示をみる。源内が秩父の鉱山に投資して開発したことを知った。その縁で彼はのちに秋田藩にわたった、ぼくの地元の偉人のひとり小田野直武はそのとき源内と出会ったという記事もみた。源内、秩父、ぼく、角館。ちいさい円がちいさく閉じた。

来た道を引き返す帰り道はあっというまで、来るときにはずいぶん感動したループ橋も降りていくのはいくらかそっけなかった。東に向かって走るとお日さまはもう頭のうしろにある時間、あとは暗く寒くなるばかりであるから、背後にある自然に後ろ髪をひかれるおもいはなくて、まっすぐ人間の世界にもどろうという気持ちがさきに立っていたかもしれない。渓谷を抜けて一気に市街までいたって、最後の目的地に向かうまえに、道の駅ちちぶでひとやすみする。

最後の目的地は定峰峠。この峠を越えて北にでるのだ。峠は走り屋をテーマにしたテレビアニメで有名になったといって、ぼくはテレビアニメはみたことがないなりに、よほど走りがいはあるんだろうと想像した。わたりきったらちょうど日没というくらいの時間、だんだん暗くなるのに怯えないで、丁寧に走れば大丈夫とおもって、飛び込んでいった。

峠の入口のストレートのところでミラー越しにちいさくみえた車が、峠をすこしはいったところですでに追いついてきた。案の定これはスポーツカーで、おなじ動機でおとずれたものとおもわれる。煽られたというほどではないけれども、スピードの差はあきらかだから譲ってあげたら、イノシシみたいに突っ走ってすぐ消えた。

鋭角のカーブがおおくてたのしいが、見通しが悪いのはもとより、夕暮れが近づいていっそうカーブ先の状況把握がむずかしかった。それで慎重さを増したのはよかったことであるいっぽうで、曲がった先で対向車線にスポーツカーが三台連なって、すれ違いざまにすこしの遠慮も感じとることができないのも、結局はこのような峠道にとっては仕方のないことか。おなじ道を走るのは同好会というよりも、しょせんは競争相手であるか。

自分の技術に目を向ければ、おなじヘアピンでも左カーブはまずまずなめらかに車両とスピードコントロールできている感覚があるのに比べて、右カーブ、特に下り道で右に切れるヘアピンカーブはあきらかに苦手意識、技術不足があることをおもった。体重をうまく移動できていなくて、運動開始するポイントを見極められないままカーブにさしかかって、それではうまく曲がることができないからスピードは一段と落とし、スピードを失ってふたたびバランスも崩れる。そうやっていろんなものが噛み合っていないことは自分でわかる。それをどうやって修正するのかはよくわかっていない。きっと後輪ブレーキの使いかたがあまりうまくないのかしらと想像してはいる。ヒヤリとする前に減速して立て直せるのは悪くなかったとおもうが、それも後ろからスポーツカーに煽られていなかったからこそ落ちついていられたとおもうから、まずまず、身のほどはわきまえるようにしよう。

峠を抜けたら、小川に沿ってゆるやかな道。やがてさっきイノシシになったスポーツカーが路線バスのうしろに捕まってそわそわと動いているのに追いつくと、いよいよ日没だ。ひたすら高速道路に向かって前進するのみ、小休止よりも帰路につくのみ。とはいえ、オドメータが切りのいい9000キロを表示したときには、おもわず路肩に停めて写真を撮った。

嵐山小川インターから高速道路に乗る。乗るやいなやの渋滞。高坂でひとやすみすると、五時半にしてまっくらだった。冷えるから袖口が暖かくなるように上着を調整しなおして、佐々木投手がポスティングでメジャーリーグへ、というテレビニュースをみた。

最寄りのガソリンスタンドまでぎりぎり走れるくらいのメータをみながら関越道を走っていった。目盛りは底を打っていたが、このくらいの距離までくればまず大丈夫だろう。そう楽観的にみる気持ちをあざけって、練馬の出口のところに大渋滞ができていて、捕まった。高速道路でガス欠、立ち往生となってはたまらないといちどよぎったら、その悪いイメージが消えなくなって、列がすこし動いて鈍行するたびにガスが燃えていくのを痛々しくおもった。いまだやったことのないすり抜け走行をいよいよやってしまおうかと本気で悩みもして、かろうじてそうはせずに済んで無事に乗り越えて、出口先のスタンドで補給した。すこしだけいれておいて、残りは近所で満タンにした。

いちにちの走行距離は260キロほど。未明に出て日没後に帰ったことが距離の数字以上に長い旅だったと感じさせた。地図でみる中津峡のとおさは、往復してはじめて具体的な手応えとしてあとに残った。家についてスマートフォンのブラウザをはじめて開いたら、朝に話したセローの先輩のブログが読みこまれた。ちょうどさっき更新されたところで、ぼくのバイクの写真がアップロードされてあった1。ぼくのたのしみはまだはじまったばかりと後押しされて力がでるおもいがした。