高崎に音楽をききにいった。三ヶ月前にカート・ローゼンウィンケルをきいたときのチラシでみて粋におもったのだった。
トリオ編成で、ウッドベースにホルヘ・ローダーさん、ドラムにデイヴ・キングさん。演奏中におもわず吐き出した空気の音がどこにあるのかわからないマイクに拾われたり、スネアをこするピアニッシモを過剰にひろって増幅しすぎたり、音響設計が混乱しているようにおもわれた。プリセットを持ち込んだのではなくて、トリオのほかにひとりの音響技術者をチームにともなっていたようだったから、ライブの試行錯誤があったのかもしれない。18時にはじまったセットは、きっかり90分であっさりと終わったようだった。仕事をしにきただけです。仕事が終わったので帰ります。そういう後味があった。
消極的な評価ばかりならべるようになってしまうかもしれない。ただ、あまり積極的な体験としてのみこむことができていないことは事実であるようだ。ぼくはこの演奏家のつかみどころをつかまえていないと感じる。
ぼくがもっとも活発に現代ジャズを聴いていたとき、ぼくはこのひとの名前のことをまだ知らなかった。ぼくより二年したの子が、同時代の新しいヒーローとして熱中している様子だったのが印象にのこっている。それが2016年頃のことだと思い出して、この年にジュリアン・ラージは最初の重要なソロアルバムを出していたことにも符合させられるようだ。それから10年たたずに、いまでは「世界最高峰」と紹介されている。
「世界最高峰ジャズ・ギタリスト」とツアーの告知に書かれてある。ジャズがルーツにあって即興演奏にいちじるしい技量がある、それはたしかなことのようだ。しかしジャズ・ギタリストとよぶのは誤謬でないかともおもう。かれのやりたい音楽は、それより広いだろうとおもう。言いかたを換えると、ぼくのおもうジャズは狭い。
ジャズとおもって聴くべき演奏家ではないようだ。ジョン・メイヤーがブルースを好むというくらいの意味で、ジュリアン・ラージはジャズを好む。しかしブルースを聴きたくてジョン・メイヤーを聴くと事故を起こす。ないし、ジョン・メイヤーを「世界最高峰ブルース・ギタリスト」とよぶのは、かなりまずいミスリードをふくむだろう。ふたりを対照させるとしっくりくる。ふたりとも素晴らしい演奏家であるうえ、売上を約束する演奏家であるということが重要なのだとおもわれる。
音楽性について。この演奏家はアメリカのカントリー音楽とかフォーク音楽を積極的に吸収して、それをジャズの語法で洗練させて再提示しようとしているようにきこえる。芸術的におとってみなされることも少なくないはずの、田舎白人の音楽を復興させる。ジャズの都会的なクールをうまく利用して、田舎白人の音楽をクールに仕立て直そうとしている。そしてそれを都会の住人に向けて問う。正統派のジャズが都会のアンビエンスに織り込まれてすっかり無毒化されてしまった時代、そこへ田舎音楽の粋を持ち込んだら、ジャズの刷新ともなる。そういう現象をこのひとは率いているのかしら。
演奏技術とコンセプトの操作は随一であるとおもうのだけれど、それにこちらの心の琴線を触れさすまでには、まだ得体のわからない音楽だと聞こえる。こちらは音楽家でないからあまりえらそうなことはいえないけれど、「この音はこうとしか鳴ることができなかった」というほどに切実で意味のある音は、まだ鳴っていないとぼくはおもった。これからひたひたに熟れる余地があってほしいものだとおもう。うめかずにはいられない苦しさ、隠そうとすれど漏れいでてしまう恥、足りていないものはこのようではないか。あるいはずっとそれらはあったのかもしれないけど、ぼくには届かない形式だけを備えていたようだ。