日立システムズホールで仙台フィルの定期演奏会をきいた。指揮は準・メルクルで、演目はすべてメンデルスゾーンで序曲「美しいメリュジーネの物語」、交響曲第4番「イタリア」休憩をはさんで交響曲第3番「スコットランド」と三本立て。
開場してすこし間があくころに到着したら、ロビーのところに人だかりがあった。開演前の室内楽のもよおしがあったようだった。ホールでは喋り慣れた司会者がコンサートマスターを壇上にまねいてインタビューをしたり、プログラムの前説をする時間があった。待ち時間の聴衆をとかく飽きさせない。
ゲスト・コンサートマスターの小森谷巧さんは、東日本大震災の直後に、音楽は無力でないかと迷いながら開催したチャリティコンサート「がんばろう日本! スーパーオーケストラ」の話をなさった。その企画は十年間継続して、いまでは解散となったけれども、こんどはゲスト・コンサートマスターとして仙台フィルに参加していることのふしぎさを語ってくださった。
準・メルクルさんは、コンサート前のプログラムには登壇されなかったが、こう前日譚が語られた。仙台フィルを指揮するのははじめてであるし、仙台をおとずれるのもはじめてだった。しかし仙台市の三代目の市長だった早川智寛というひとの、準・メルクルさんは孫の孫にあたって、来訪してまず墓に手をあわせた。いい話のように聞こえて、立派な家系の話をどういう態度で聞いたらいいかわからなくなってしまい、すこしだけ醒めた態度でおらざるをえなかった。
コンサートはややぎこちなく聞こえるやりかたではじまったように聞こえた。しかしその印象は誤りであった。はじめの一音で耳をじゅうぶんに集中させられなかったのはこちらだったか。弦は小さな音を作りこんで、その作りこみがそのまま大音響の効果を最大化させていた。木管と金管も加わったアンサンブルは、どのセクションが明らかにリードする様相はみせないまま、オーケストラ全体がよく鳴っている印象に聞こえた。
準・メルクルさんは、オーケストラを支配しようとするかわりに、うながして引き出すやりかたで指揮をとるようにみえた。そしてコンサートマスター、さきほど登壇した小森谷さんが率いる役にまわっていた。身体を前後左右に動かしたり、はやいフレーズにはおもわず腰を持ち上げて全精力を投入するように弾いた。技術的難度がその身振りをさせているようにみせかけて、後背の第一バイオリン隊がかならずしもみな苦しそうに腕を動かしているわけではないから、演奏を経由した指揮であったのだろう。緊張と弛緩を指示する身体の表現だった。そのようにみえた。
日立システムズホールは都内のいくつかの大型コンサートホールに比べるとひとまわりもふたまわりもちいさな、中型のホールだ。翌日のチケットは完売、この日のコンサートも当日券はなしというから、客席はめいっぱい埋まっていたようだ。高校生たちが十名、二十名の規模で訪れているのもみえた。録音機材は最小限にみえ、録画機材はなかった。
ステージは客席にくらべてそう高くなく、ステージ上のマージンもそれほどおおきくないから、オーケストラと聴衆の距離は近く見えた。終演後のロビーにはすくなくない数の楽団員が見送りにならんでくださっていて、ファンとの交流にも余念なかった。コンサート前の企画も入念で、コンサート後のサービスもみんなで担っている。応援しがいのあるオーケストラだとおもった。
この6月に、サントリーホールで仙台フィルがガーシュウィンとコープランドを演奏するのをきいた。準・メルクルさんが定期演奏会を振るというチラシはそのときにみたのだった。ぼくはこの日のコンサートのほうが好ましくおもった。あるいは東京にいてぼくは移り気な聴衆のひとりだったが、仙台にきてしまえば熱心な聴衆のひとりになれたということかもしれない。
地下駐車場から抜け出すための流れがすこぶる悪く、終演後に車にのりこんでからゲートを抜けるまで半時間かかった。夜間は閉鎖される駐車場からみながいっせいに帰ろうとするときに、地下二階に駐めた組は、どれだけはやく車に乗り込んだところで、地下一階に駐めた組があとからぞくぞくと割り込みして抜け出していくのをひとしきり待たねば帰ることができなかった。もっとも、車の流れを不用意に淀ませないことは、この街の苦手としていることとおもわれた。駅前からホールまでのちょっとした道のりさえ、自転車のような時速でようやくたどり着けたのだった。