ウォルト・ディズニー・コンサート・ホールにロサンゼルス・フィルハーモニックを聴きにいった。
演目は、ガブリエラ・オルティスのチェロ協奏曲「ゾノト」の世界初演と、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」全曲。指揮は音楽監督のグスタボ・ドゥダメルだ。演奏会前のプログラムでは、市のユースオーケストラを指導するラッセル・スタインバーグというひとが登壇して、プログラムの概要を聴衆に教育した。前半は新作の作曲者のオルティスと VFX エンジニアを招いてインタビューをして、後半では「夏の夜の夢」の音楽史上の意義を熱っぽく語った。
演奏会前のトークでは、ステージ前のエリアが開放されていた。指揮台の手前にピアノがあって、その横にみっつの椅子がならんだ。スタインバーグがまず楽譜をかついで登壇して、ふたりのインタビュイーを招いて、創造性についての一般的な質問と、具体的な質問を投げかけた。オルティスはこんなことを語った。メキシコシティで生まれて、ロンドンの学校で音楽の訓練を受けた。そこで西洋古典の伝統とされるものに身をひたした。あるときメキシコシティに戻ると、そこには西洋古典の構築性はなかった。やがてロサンゼルスにやってきて、こうおもった。ここはロンドンよりもメキシコシティにより似ている。ここは、やりやすい。
ふたりのインタビュイーが去ったあと、スタインバーグは「夏の夜の夢」の話をしはじめた。フルートからはじまる、メンデルスゾーンの四つの和音が、リムスキー=コルサコフ「シェヘラザード」に継承されていること。妖精のたわむれを伝えるリズムの操作は、あるいはモーツァルト「フィガロの結婚」からメンデルスゾーンが引用していること。それには証拠があるといわんばかりに、スタインバーグは音源をかけるのだけれど、そのとき彼は iPhone をケーブルにつないで、ホールのスピーカーでぶつ切りに再生して、そのやりかたは実用的でいいなとおもった。
ときに iPhone から音楽をかけたかとおもえば、そのあとにはピアノを叩いて「そうこの和音」と情熱的に走る。たのしいレッスンの時間だった。夜想曲のホルンがどれだけすばらしいかと語りはじめようとしたところで時間切れ。ステージ下手の扉が開いて、スタインバーグはピアノに広げたスコアを束ねるのに苦労しながら見えないスタッフに謝罪した。熱心な教育者の印象だった
「ゾノト」は全四楽章。「ゾノト」とはセノーテ、セノーテとはユカタン半島の自然にみられる泉をつくる地形をいって、石灰岩の台地が崩落して竪穴をつくって、そこに地下水が溜まる。竪穴の泉にまっすぐな光がさしこんで、水は明るく鳥がさえずっている。そういう情景を崇高とみて、その情景が破壊されつつあることの危惧を鳴らす。ロマン主義らしい動機があるようだ。
ソリストは、アリサ・ワイラースタイン。弦楽器を打楽器のようにして使って、チェロは旋律よりもリズムの運動を全面に押し出した。オルティスは、ギロの奏法をチェロに取り込ませることを念頭においたと話していた。おおきく鳴らした銅鑼を、殴打したとたんに水槽に沈める、というようなギミックも駆使した。同時代の作曲家の世界初演に立ち会って、チェロ協奏曲という伝統的な形式が披露されるのをおもしろくおもったし、その形式に付かず離れずの新しさも織り込んで、おもしろいパフォーマンスだったとおもう。
演奏を終えたドゥダメルは客席からオルティスさんを壇上にまねいて、ともにおおきい拍手を受けた。楽団員たちも彼女に拍手をしていた。手に楽器をもって拍手ができないから足踏みで称賛するのがオーケストラの通例なのかとおもいこんでいたけれど、ロサンゼルス・フィルハーモニックは手を打って称賛していた。
インターバルのあと「夏の夜の夢」は語りと独唱、合唱がそろって全曲を披露した。ドゥダメルは序曲を振って、軽さを残しながらたしかに力強かった。冒頭、フルートからはじまる四つの和音。妖精たちのせわしない羽音のような弦のさえずり。行ったり来たりしたあとに高音から低音にダイナミックに落ちるようすが示す、シェイクスピアが登場させたロバのまぬけぶり。
序曲が末尾に差し掛かるにつれて、会場の照明はゆっくりと落ちて、やがて夜の暗さとなって、指揮台だけが月明かりに浮かび上がるようにゆるやかに照らされた。ステージにひとりの俳優がみちびかれて、劇的な独演で右へ左へ、さらにはオーケストラの外を抜けて奥にまわって、夢うつつの物語をはじめる。シェイクスピア劇がスペイン語に読み替えて演じられて、スクリプトが英語で投影された。独演は俳優のマリア・バルベルデさん。またソプラノとメゾソプラノの独唱があって、合唱もともなった。歌は英語詩のまま。台本をスペイン語に読み替えるという、なんとなくカリフォルニアらしい試みもあって、いい機会に立ち会えたとおもう。
全編とおして聴くことで、メンデルスゾーンが破格の天才であることをあらためて知る。かならずしも壮大なスケールでない舞台に、どれだけおおきなスケールの断片が含まれていることだろう。序曲、スケルツォ、インテルメッツォ、ノクターン、結婚行進曲。すべて通して聴いて、これらの抜粋が演奏会で好まれることの意味がはっきりわかった。そうおもった。
いい演奏会だとおもった、客席のさわがしさを除けば。英語とスペイン語とではっきり不許可とアナウンスされていても、演奏するオーケストラの写真を撮る、ビデオを撮る。そういうことをしているから、手をすべらせてスマートフォンを床に叩きつけて、指揮の外に余計なパーカッショニストがたくさんいる、みたいな粗末な状況が生まれていた。天井桟敷にちかいところから客席とオーケストラを見下ろす位置にいると、せっかく真っ暗にして演出された舞台に向けて、フラッシュさえ焚いて撮影する光がみえて、興ざめだった。
新大陸と呼ばれて、伝統のしがらみをときに無効化できることが強みである社会があるとして、禁止という言葉をこれほど軽々しく見過ごしてあっけらかんとする様に、驚きをあらためるおもいがした。いちおう古典とされるものを突きつけられて飄々としていられるありさまをみて、これはぼくの感覚とは離れている、と直感した。ドイツにいては歴史意識があまりに重すぎるとおもったものだったが、アメリカにあっては軽すぎると感じるようだ。ひるがえって、このどっちつかずな感覚こそ、なににつけてもアンビバレントな、ぼくがそのなかに長年ひたってきた社会の特異な相なのかもしれない。それこそ惜しいようだが、染みついて落とすことのできない汚れのようでもある。