月曜日の夜に南カリフォルニア大学のキャンパスでジャズのライブを聴いた。

大学の音楽学部のもよおし、メインは ALAJE (The Afro-Latin American Jazz Ensemble) というバンドで、そのほか学生中心のプロジェクトが、コンボとビッグバンドでひとつずつ。スタイルがことなるのに一本筋のとおったプログラムがおもしろい。

まずコンボのステージから。編成はテナー、トランペット、トロンボーンの三管にピアノがいて、五十年代のコルトレーンの編成が印象をよぎった。実際、声のことなる三本の管楽器のアレンジメントは、主題を吹いても伴奏にまわってもクラシカルで、なかなか聴けないもの。スイングものからはじまって、エイトビート、ラテン、ボサノバ、変拍子などと技術力のショーケースというおもむきだった。しかもスタンダードはとりあげなくて、プレイヤーたちがおのおの書いたオリジナルをあつかっているという。音楽大学というのはすごい場所だなと素朴に感心せずにはいられなかった。

みんな若いプレイヤーながら、トロンボーン奏者は背丈からも容貌からも、また緊張しきった様子からも、きっと新入生でほとんどはじめてのステージなのだろうとおもわせた。それでも最初のアドリブの32小節のなかで、最大音と最小音のダイナミクスを確認するようにおもいきり吹きあげて、音量のコントロールをスイング感のいちぶに聴かせてリズムを提示するぐあいから、ダイヤの原石としてきょうはステージにあがったのだろうなとおもわせた。アドリブの場数を踏めばとんでもなくうまくなりそう、なんて偉そうなことをおもったりせずにはいられなくて、若さに特有の演奏の魅力をあじわった。

モダンジャズ、アフリカン・アメリカンの音楽、アメリカが生んだ例外的な芸術、それはすばらしい。一般にジャズとして把握される、あるいは多様なばかりで手応えのない観念群と、ジャズとして教えられて実践されているものの手触りにはおおきい隔たりがあることをかんがえた。理論は整備されて、古典との境界は薄らいで、聴衆もプレイヤーも昔とはちがうんだろうけど、あたらしく発見されて、あたらしく継承されている。それはそうでしかありえないだろう、そうなんだろうな。すばらしいことだ。

続いてビッグバンド。弾き振りをしない指揮者が譜面台のまえに立ってキューをだした。コンサート・ジャズ・オーケストラといって、ジャズ専攻の学部生はもとより、クラシック専攻のメンバーも、音楽学部外の生徒さえもまざりあって活動しているらしい。そしてレパートリーはオリジナルだ。つまり、新旧のバンドメンバーの作曲、卒業生の作曲、大学院生の作曲、それに講師と教授たちの作曲。アレンジもそう。ここでもやっぱり音楽はつくられた先から消えていかないで、演奏されて聴かれて残っていく。ちょっとセンチメンタルになる。

ビッグバンドは、ステージの右に管が十五本くらいみっちりしていて、左手にはピアノ、エレキギター、ウッドベースがゆうゆうとしている。曲ごとにどのメンバーがソロをとるかもあらかじめ書かれていて、一年生のこわいものしらずの熱量から、上級生の苦さをまぜた呼吸まで、いいかんじにブレンドされていたとおもう。新入生のサックスと上級生のトロンボーンが八小節ずつソロを重ねるところは、いかにもバトルに発展しそうなフォーマットだったけど、新入生らしい行儀のよさが絶対にそうは聴かせないように構築していて、かえってあまりみない光景ににっこりとした。

最後にメインプログラムの ALAJE の演奏で、ステージの中央にティンバレス、手前にコンガとボンゴが並んだ。右側には五本のコーラスマイクが横並びになって、奥には管楽器隊が一列に立った。すべて歌もののプログラムで、ラテンポップの古典らしいレパートリーを聴かせるのだけど、バンドのアンサンブルこそリズムの切れ味するどく、パーカッションの打撃が全体を引っ張って、ハーモニーはそれに従属しているようだ。西洋古典音楽が、ハーモニーにリズムを従属させていることの逆が起こっている、それこそアフロ・ラテン・アメリカン・ジャズ、ということかな。

これまでのプログラムがオリジナルの自作自演にフォーカスしていたのと対照的に、このバンドのレパートリーはすべてラテンアメリカの大衆音楽のスタンダードを取り上げているようだ。ぼくは不勉強で口ずさめるタイトルはなかったけど、慣れ親しんだ向きによほどたまらないセットリストになっていたようだ。

五人の若いコーラス隊から各曲でひとりずつリードボーカルがフィーチャーされて、みな力強い喉を気持ちよさそうに鳴らして踊っていた。その歌いかたにしても、ハーモニーよりもリズムにより傾いて、メロディを歌い上げるというよりも、身体のなかにあるリズムを発散させる歌いかたをしていた。これは東洋のぼくが大衆音楽といって慣れ親しんだものとは原点からことなる、そう感じた。聴いて気持ちのいいことこのうえない歌なのに、自分の喉でそれを演奏しなおすことはまずできないとおもって、そのことがいっそうこの音楽を崇高に感じさせた。和声もアクセントも文字通りに別世界からきたもののようで、音楽の底知れなさをおもった。


夜七時からの無料コンサートは、十時すぎにお開きになった。

大学にはいるためには、関係者からの招待をあらかじめもらって、そのうえ現地でパスポートで認証しなければならないとされていた。この春にパレスチナ情勢への抗議キャンペーンを嫌った大学が引き締めにかかったようだ。とはいえ検問はゆるくて、おちおちパスポートもつかわないままキャンパスに潜入することはできてしまった。

はやめに会場について、ステージに近い席にすわって、しばらくほとんど誰もこなかったから、はたして集客はうまくいっているのだろうかと不安にさせたけれど、開演の十分前くらいからぞろぞろ授業終わりの学生たちがあらわれて、気づけばあっというまの満席だ。機材の運用には専門のスタッフがあたっていたり、音楽大学のジャズ専攻なるものには、ぼくのいた一般大学のジャズサークルとは天地の差がある。もちろん、そうでなければなんの意味もないことだ!

道具をつかう身体がいくつもあつまって、ひとりでなくみんなで音楽をするということの天真爛漫なたのしみがあちこちにみえて、まぶしかった。そのまぶしさは、たぶん音楽エリートでなかったぼくたちのなかにもあったはずだし、またやってみたいな、この音楽を、と素朴にうずうずとするおもいもした。