サントリーホールにN響の定期演奏会を聴きにいった。
演目はシューベルト「イタリア風序曲第2番」、シューマン「ピアノ協奏曲」、そしてベートーヴェンの「交響曲第7番」の三本立て。指揮はファビオ・ルイージで、「ピアノ協奏曲」のソロはアレッサンドロ・タヴェルナ。
アレッサンドロ・タヴェルナさんは、もともと出演予定だったエレーヌ・グリモーさんがコロナに罹って来日不能になって緊急登板だった。自分が主役になってグイグイ引っ張る演奏ではなくて、オーケストラに耳をかたむけてやさしく調和させる演奏で、それでいて埋没しないで立つピアノを聴かせていた。アンコールにバッハ「羊は安らかに草をはみ」を選んでやさしく聴かせるところにも人柄がでているようで、とても好ましかった。いい演奏だった。しかし、おそろしい仕上がりのベートーヴェンがあとに続いたことによってピアノ協奏曲までの印象がいくぶん吹き飛んでしまったことは告白しなければならない。
おそろしい仕上がりのベートーヴェンだったのだ。センチメンタルな演奏を目指していないことは明らかであるのに、どうして音列はこうも感情をかきたてずにおかないのだろうと不思議におもいながら、涙といっしょにさらさらした鼻水がとまらなくなって、口ひげがかろうじてしばらくせき止めていたが、第1楽章が終わるよりもはやく、口ひげに貯えきれなくなった水が腕にびよんと垂れた。永遠に音におぼれていたいのにと苦々しくおもいながらティッシュを探して拭うと、とてもひとつでたりる量の水分ではなかった。
濃密というほどの粘り気もないのだ。朴にして剛健。ロマンティシズムとか、馥郁たる、というような意味で豊かであるというよりも、むしろずっと禁欲的で、病にとってつけいる隙のない、体操選手の肉体のようなパフォーマンスだった。フルートとオーボエを筆頭に、楽器は単純な部品として機械的に運動しているようにも聞こえるのだけれど、機械の運動がある境を越えて、ひとの感情には余るどうしようもない崇高さを獲得しているようすにみえた。すべてが大騒ぎであるのに、これほど平穏な時間もないものだとおもわせることのふしぎ。
第四楽章は、およそ想像可能なうちいちばんの速さで、と注文があったに違いない、聞いたこともない高速テンポでの演奏だった。荒っぽいくらいの速度であるのに、アンサンブルは各音が分解されてクリアに聞こえることもおそろしい。クリアに聞きとるよりもこちらの耳が置いてきぼりにされていたかもしれない。レーシングバイクが目の前を突っ走って、横切ってすぐに消えていって、あとに残ったその音を聞いてようやく目が覚めるような心地。
そして、そのように筋肉の動作と体操の美学が支配する演奏が、こちらの感情を際限なく昂らせることの意味がぼくにはまったくわからない。ひとが書いてひとの鳴らす音楽はすべて精神の昂揚がともなうといっていいはずなのに、どうしてベートーヴェンだけがこう、生きることの喜びそのもの、この世のありとあらゆる理想の実現、とでもいうようなとても背負いきれるはずのない大きさのテーマを背負っているようにみえるのだろう。そしてどうして二百年、蛮勇いまだに自壊にいたらず、それどころかすべてを飲み込んでますます峻厳の色を強めるのか。ロマンチックでない演奏といったはずだったが、どうやらロマンチックになっているのはぼくの手のほうであった。