下北沢の K2 で酒井耕さんと濱口竜介さんが東日本大震災の被災地を映した記録映画をみた。二夜つづけて二本みた。

インタビューもので、それぞれ六組の被災体験がカメラに向かって語られ、マイクに向かって吹き込まれている。ふたりの監督がそれぞれワンオンワンでインタビューに向かうこともあるが、近しい関係のふたりが向かいあって語りあう変則インタビューもあって、その形式のほうが数としてはおおい。あのときにはこんなことがあったね、あなたはこう叫んだね、わたしはこうおもってこう動いたね、と、出来事の記憶をたしかめあいながら、そこから生き延びた災害のことをあらためておもいだす共同作業がフィルムにおさめられていることのすさまじさ。

あの日のあの時間、わたしはどこにいてなにをしていました。あなたはどこにいてなにをしたでしょう。あたらめて話しあうことは、なんども繰り返してきたようで、話すほどにまだ知らなかったことに気づく。そういうありさまをみせられているようだ。ものの三十分、それか一時間のうちにすべての景色が変わった。町が消えた。隣人が連れ去られた。数日後までに、原発がふたつ壊れた。あっというまの話だけれど、そのあっというまという一言に圧縮したはずの記憶は百万通りある。

死んだとおもった妻が帰ってきて、嬉しくてたまらないのに、まわりの被災者のことをおもうと泣いて喜ぶことはできなかった。でも生きて歩いている妻をはじめて見つけた瞬間のことをいま思い出すだけで、感極まって涙がとまらなくなる。つらかった。うれしかった。苦しさ、つらさが巨大であるぶんだけ、あたりまえにあれることのよろこびが心をわしづかみにしてギュッと絞りあげた。

ぼくは揺れた瞬間にどこにいてなにをしようとしていたかはおぼえている。揺れがおさまったあと、いっしょにいた母の運転で家まで走ったこともおぼえている。そのあとのことはほとんどおぼえていない。実況報道のことはなにも記憶していない。テレビもラジオもつけなかったから。携帯電話もみなかった。停電がいつ回復するかわからなくて、いたずらに通信しないことをたぶん父が命令したから。まったく社会にあって孤絶して、それでいて停電以上の被害はなくて、困ることを知らずにいた。空前絶後の災害だったことは、年月を経るほどにようやくはっきりとしはじめて、かえりみるほどに情けなさがつのるのは、まったく穏やかに災害に応じてしまった無邪気さへの罪滅ぼしだろうか。しかしそのころぼくにできることなどその程度しかなかったのだ。もっとも、いまからなにができるかという問いに応じることも、ひとりよがりの理由をつけては後回しにばかりしているようだ。