ル・シネマ渋谷宮下でファスビンダー傑作選より『自由の暴力』をみた。原題は Faustrecht der Freiheit 、英題は Fox and His Friends で、公開は1975年。ファスビンダー自身が主演している。

見世物小屋で肉体を売りにするフォックスは雇い主が刑務所にいれられてしまい失業する。品のいい紳士に身体を売って糊口をしのぐ。それでいて宝くじ依存症になっていて、誰からでも金を借りては宝くじを買えないかばかり考えている。花屋からちょろまかした小額紙幣で、嘘みたいに一発あてる。

紳士たちのゲイサークルで、フォックスはオイゲンに出会う。オイゲンは製本会社の二代目経営者で、文化的享楽にうつつを抜かして、会社は傾いている。フォックスはそれがわからなくて、品のよい真面目な経営者のボーイフレンドができたとよろこんでは熱心にいれこむ。

しかしその入れ込み方はこうだ。オイゲンの家族の経営失敗を現金で埋め合わせる。オイゲンにいわれるがままに不動産投資する。しかもふたたびの経営危機でその不動産をオイゲン名義で担保にいれる。それでいてオイゲンはというと、感謝を述べるどころか、金だけで品がないとフォックスを軽蔑する。そして絞る、絞る、絞れるだけ絞る。

やがてフォックスは捨てられた。貸した金は狡猾な理屈で踏み倒されて、不動産の所有権は手元にのこらなく、すべて失って捨てられた。

という話。まずもって一級の最悪映画だった。気分を最悪にさせる映画、反ハッピーエンドのストーリーテリングの術にかけては最高級の映画だったとおもう。傑作だ! もっとも、すぐにもういちどみたいとおもうことはできない。

オイゲンはみたことのない気質の悪役だ。文化的センスと経営センスを兼ね備えた聖人君子のように振る舞っているし、周囲にもそうと認められている。フォックスもそれに騙されてしまう。しかしそのセンスたるや…なんというか、古いものは素晴らしい、異国のものはすばらしい、値段の高いものはすばらしい、という、文化人と経営者の悪い感覚をそれぞれつまみつまみブレンドして焙煎したみたいな最悪の怪物めいたセンスをしている。

グロテスク、品性下劣とののしる声が頭のなかで響くのだけれど、その声が響いた瞬間に内省を余儀なくさせられもする。「品位がない」「センスが悪い」「せいぜい教養を身につけたら」スクリーン越しにオイゲンに浴びせたい罵倒はすべて、オイゲンがフォックスに浴びせるセリフとして脚本に書き込まれている。つまり、どうしようもない小人物のオイゲンは、いままさにちょっと昔の外国映画をみにミニシアターにやってくるみたいな客の感覚を象徴している、そういうたくらみがほどこされているようにおもわれてならないのだ。

フォックスは素朴な恋をしているだけだ。労働者あがりだから、上の階級がどういう規範で運動しているかわからない。宝くじの一攫千金で上の階級のあたらしいゲイコミュニティに参入することはできたが、現金主義のメカニズムしか理解できない、投資も契約もいまいちわからない。ただ身体を許した恋人だけは裏切らないはずと信じて、はじめから裏切りを念頭においた罠にとらえられていってしまう。ここははっきり、労働者の持ち物を奪い、絞って捨てるという経営者のロジックが、恋や信頼とそもそも相容れないことを語っている。

「こんなに立派な恋人が間違うはずがない」「地位のある彼がリスクを犯して裏切るはずはない」というかぼそい論理で恋心をなんとか奮い立たせてもうひとがんばりボーイフレンドに尽くそうとするフォックスの心理は、みていられないほどにまぶしく、痛々しく、情けないほどに美しい。恋心になぞらえて語っているが、虐げられる労働者が、自分だけはきっと大丈夫なはずだと信じて、結局は使い捨てられる。そういう普遍的な物語が恋を比喩にしてのっと出てきているようにみえる。

素直さのために敗北と退場を余儀なくされたゲイ・プロレタリアの姿をとおして、地位あるひとびとはどうして全員が詐欺師と呼ぶことができるかを告発する映画で、きっとどんなステータスのひとがみても、複数のやりかたで神経を逆なでするに違いない。挑発的な映画であるが「挑発的な映画でしたね」と他人事のように、安全に語ることのできる立場はどこにもなさそうだ。危険な映画で、まれなる映画。