今年のお盆は実家に誰もいなくなってはじめてのお盆だった。ただ母だけが一日だけ戻ってお墓参りと野暮用を足す。
お盆の前に三連休があって、県をまたいでふたつのお墓の面倒をみるのに、新幹線の指定席を細かく刻んでとるのはむずかしかった。古川でレンタカーを借りて、新幹線代を節約しつつ、ドライブでもしながら墓参りしましょうや。しかし母とぼくのほかはみな忙しそうにしていた。こうしてふたりでお盆のツアーをすることになった。
前の日に仙台にはいってぼうっと過ごしていたぼくが古川駅に先回りして車を借りることにした。そこで母と落ち合う。ニッポンレンタカーで予約した車は軽自動車の次のクラスだったのだけど、お店の側の都合なのかサービスなのか、新しいインプレッサをあてがってくれた。まだ 1000km も走っていない正真正銘の新車だ。これでおばあちゃんの家に向かう。
大崎の郊外にあるおばあちゃんの家は雑草でぼうぼうだ。誰も住まなくなって五年以上になる。空き家の引き取り手がつくまでは手入れをしていたそうなのだけれど、今年になって処分先に目処がついて、たったひと夏だれも世話をしなかったら、あっというまに雑草で埋め尽くされた。そういえば夏休みにここに泊まっていたとき、毎年のように草むしりをせっせと手伝ったっけと思い出しもする。
お墓参りに必要な道具をもって、お寺にいく。松窓寺。このお墓にお盆におとずれるのははじめて。迎え火は焚かないのがこの寺のスタイルのようだ。おひさまがじりじりと暑いなか、献花して手を合わせる。誰かがさきにきて新しいお花を備えてくれた跡があった。境内の自動販売機でおもわずポカリスエットを買う。
近くの製菓店で粟まんじゅうと水まんじゅうを買って、空き家にもういちど帰る。ここにあるものはやがてぜんぶ捨てられることになるから、ほしいものがあったら本でもなんでも持って帰るといいと母がいう。おばあちゃんが洗濯物を干したあとにいつも慎ましいボリュームで静かに音楽を聴いていた部屋をのぞいてみたら、スケッチブックがあった。古い署名は1988年と刻まれている。最後のページ、果物のスケッチに短い随筆が添えられていた。満八十歳とあるからきっと2012年頃の手だ。残りの人生に自由を感じて生きたいとのぞむこころが、それをさせまいと束縛する力にあらがおうとする詩だった。
運転好きの母にハンドルを譲って、高速道路はつかわず鳴子温泉から峠道を越えて秋田県南にはいる道路を選択した。宮城県の最西北に向かうにつれて、大雨が降ったりやんだりを繰り返す。電子制御されたワイパーが予測不能な、躁的な動きをする。なんだこれは! 落ち着かない! とひと笑いするうちに雨は止んだ。長いトンネルを抜けて奥羽山脈の西に出ると快晴だ。エフエムで浄瑠璃かなにかの公演の録音を放送していて、県境の山間だから電波が不安定で、たいがいはホワイトノイズを聞きながらドライブした。
市内にでて、母校のある街のバイパス沿いの南部家敷で天ざるをたべた。仙北の実家までの道を走って、夕方にもならないうちに着いた。
家は家具がめっきり捨てられて減ってすっきりして、代わりにあたらしい遊具や生活機材が導入されていた。だれも掃除をしないから畳のうえに髪の毛や小さなゴミが散らかっていた。もので埋め尽くされているわけではないけれど、足のやり場に気をつけないで歩くことができなかった。ひとまず八畳間ひとつだけ掃除機をかけた。
お墓参り。お花をそなえて迎え火を炊いた。お経をあげてもらった。あっけなく終わった。幼稚園に通っていたときのこと、きょうだいみんなでここやってきてヒグラシが鳴くのを聞いたことを思い出して、いろんなものが小さく懐かしくみえた。
回転寿司にでもいきましょうかと向かってみたら、持ち帰りの営業しかしていなかった。代わりに寄ったスーパーで「おかえりなさい」とお盆の家族だんらんをうながすセールをやっていて、まるでクリスマスみたいに豪華なオードブルとかお惣菜の詰め合わせが並んでいた。お寿司のセットとお漬物をえらんで夕飯にする。湿気がすさまじくて夕方までは外にいてメガネは曇るし汗は止まらなかったけれど、夜にはエアコンがなくても気持ちよく眠れる気候になった。
翌朝。お惣菜のお稲荷さんをつまむ。お坊さんがやってきて、家の仏壇に般若心経をあげてくれる。「ギャーテーギャーテー」に休符なしでなだれこんで「ボシソワカ般若心経」の前に一呼吸あけているのが新鮮だった。いい読経だった。
お坊さんを見送ったら、一日分のゴミを片付けて宮城に帰る。家を出たあとで、ああ仏壇の花を引き上げるのを忘れてしまった、ああお墓で迎え火の後片付けを忘れてしまった、とあれこれ忘れ物を思い出した。が、どうにもならない。
道の駅に寄っては休憩して、昼過ぎには大崎につく。ファミレスで最後の休憩を済ませたら、駅前で給油をしてレンタカーを返す。平日水曜日だけれどユーターンラッシュのピークに重なってしまったらしい。母とは別々の新幹線をとって、なんとかおたがい指定席をひとつずつ確保して、東京に帰った。