松本文化会館でサイトウ・キネン・オーケストラを聴きました。
プログラムはメンデルスゾーン「夏の夜の夢」に、シュトラウス「ドン・ファン」と「4つの最後の歌」の三本立て。「夏の夜の夢」は春にN響のコンサートで、「ドン・ファン」はフェスタサマーミューザで読売日本交響楽団のコンサートで聴きました。どちらもお気に入りのプログラムです。
「夏の夜の夢」は「序曲」「スケルツォ」「間奏曲」「夜想曲」「結婚行進曲」の抜粋です。シェイクスピアの戯曲を下敷きにした連作で、そのうち「序曲」のみ若書きの恐るべき秀作、残りの連作は後年のメンデルスゾーンが書き、若書きの「序曲」を再利用したものといいます。
「序曲」はフルートの幽玄な導入をバイオリンの高速メカニカルフレーズが追いかけて、すぐにオーケストラ全体の大合奏がやってきます。シェイクスピアの原案どおりに聴くならば妖精たちのたわむれを描いたとみるところ、蒸す日本の夏に聴くとむらむらと虫がたかって、それを振り払うために手足をばたばたさせ、つかのま平穏にまどろんではふたたび虫のむらがる一夜の情景をおもわせます。しかし着想は爽やかで耳あたりのよいものです。駆け抜けるように速いテンポの音楽が駆け足とは聴かせないで、はなやかな祝祭の気分で音楽祭のはじまりを告知する演奏でした。
白眉は「夜想曲」です。これは何度も聴いたはずなのに、このときあたらしく発見する美しさでした。ホルンの甘い主旋律が、宇宙の子守唄みたいに遠くから響いて、身体を包み込む音の深さと胸に突き立てる音の力強さをいちどに鳴らします。毛のない白い顔を真っ赤にしながらホルンを吹いて魔法の世界を現出させたのは、ヨルグ・ブリュックナーさん。ミュンヘン・フィルハーモニーの首席ホルンプレイヤーだといいます。このホルン演奏がぼくにとってはこの日のハイライトでした。メロディの美しさと音響のすばらしさをずっとおもいだして、おもいだすたびにうるうると涙腺がゆるみました。それを支える弦楽器のはたらきもすばらしかったに違いありませんが、もっぱら管の音色の存在感に圧倒されました。
インターミッションののち「ドン・ファン」のためにオーケストラが拡大します。「ドン・ファン」はリヒャルト・シュトラウスの出世作で、華々しく分厚いオーケストレーションは19世紀ドイツ音楽の最後の輝きのひとつです。弦楽器セクションの配置も変わって、「夏の夜の夢」では後ろを支えていたメンバーがトップに出るなどうつろいます。演奏は情熱的にはじまり、おだやかに推移します。耳にさきほどの「夜想曲」がこびりついて離れずにいたところ、中盤にホルンがふたたび存在感を主張して、やはりすばらしい音色です。終盤にオーケストラが高まり高まりきったところで途絶え、静かに消え入るような苦々しい死をおもわせるあっけないおわりかたでおわります。
「4つの最後の歌」は年をくだって第二次大戦後のリヒャルト・シュトラウスの最晩年の作です。かたや前衛音楽とモダニズムが台頭して、かたやナチスの保守主義がドイツを破滅させて、ふたつ以上の意味で長く生きすぎたシュトラウスの、最後のため息が形をとったような枯れた音楽です。ソプラノにエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーさんを迎えてゆっくりはじまります。はじめて聴く曲目につき、あらかじめジェシー・ノーマンの歌った録音を繰り返し聴いてのぞみました。頑迷に過去にとどまろうとするのではない、むしろ晩年の芸術家に独特の前衛意識があらわれて、解剖や介入をこばむ難解さがあるようです。しかしこの日の「眠りにつくとき」はすばらしい演奏と歌唱でした。
沖澤のどかさんの指揮を聴きたいと欲して向かった音楽祭でしたが、ここでは指揮者がオーケストラを統率して牽引するというのとは異なる力学があるようでした。独特の空気があるようでした。開演時間がおとずれたときに、まだ楽団員がひとりもステージにあらわれないうちに客席の照明がゆっくり落ちて、コンサートマスターが先頭に立ってオーケストラがぞろぞろ登壇しました。拍手がそれを迎えるうちに、指揮者もオーケストラの一員のようにして登壇しました。そしてオーケストラは指揮者が指揮台のうえに立ってから調音をおこなって、そのまま最初の演奏にはいったのでした。コンサートマスターと指揮者に通常あるとかんがえられる権威がないものとはじめに示したのか、意図はおしはかるよりありませんが印象的でした。