鹿児島の霧島音楽祭のための特別オーケストラの東京公演をきいた。
たしか二ヶ月前に仙台フィルをサントリーホールできいたときに受け取ったパンフレットのなかにこの公演の情報があった。祝祭楽団という縁起よさそうなオーケストラがこってりしたプログラムをやるのがいかにもおもしろそうにみえた。ワグナー『トリスタンとイゾルデ』より「序曲と愛の死」をまずやる。ピアノに谷昂登さんを迎えてリストの「ピアノ協奏曲第1番」。休憩をはさんでストラヴィンスキーの「春の祭典」というプログラム。指揮はデヴィッド・レイランドさん。コンサートマスターにゲヴァントハウス管弦楽団のフランク=ミヒャエル・エルベンさん。ぼくは一階席前から五列目の真ん中に腰掛けた。
はじめからイカれてしまった。トリスタンとイゾルデの苦悶と官能のあいだで厳しく葛藤するわだかまりはゆっくりとしたオーケストラにのって、じわじわとのみ進むようで、音はねっとりせずその場をたちまちはなれて自由だ。絶叫するようにホール全体をうならせたのが夢だったみたいに消えていった。生の音の塊はおそろしくよく響いてエゴの深いところで鳴った。ひとは悲しんで死ぬためだけに生まれてきたとして、こんなにきれいな音が鳴っては消えていくだけの短い時間に深い満足を得るのはかけがえのないことと信じた。人生でもっともよいワグナー体験のひとつ。
リストのピアノ協奏曲は、このまえ川崎で第2番を聞いてこの日は第1番。ソリストの谷さんは若い男性芸術家の、自信にあふれているのと同時に、自分に持てるもののスケールのおおきさをまだ自分でも測りかねている繊細な佇まいにみえた。ピアノはぎらぎらと鳴って、豪胆が野蛮に転じないすれすれのところを横切るようにして離陸した。離陸するまでの揺れに激しいところがあったけれども、オーケストラとのあいだにひとつの呼吸を見つけた。やがてピアノの尽きない推進力に呼応して、熟れた音を聞かせていたオーケストラがおもわず走り出してしまうような音の変化があった。引っ張られてつんのめる走りかたでなく、追い風を受けておもわず脚を軽くする走りかただった。生で聴くピアノ協奏曲の記憶は、ピアノかオーケストラのどちらかがつい弱く聴こえてしまってうまく乗り切れずに過ぎてしまうことばかりであったけれども、この日のピアノとオーケストラのアンサンブルはいいバランスで飽きずに聴いた。ホールと席がよかったといえばそれまでだけれど。アンコールのストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」より「ロシアの踊り」は力強い和音がキラキラと鳴って谷さんのスタイルによくあっていた。
最後に「春の祭典」となる。レイランドは指揮の合図を出さずに、ファゴットに導入を委ねた。管がひとつひとつの音を丁寧に重ねて、音の数がすくないところでも豊かに響いている。複雑なリズムの旋律であったとしても、旋律のスムーズさがリズムを意識させなかった。野蛮な和音がリズムを刻んでは去って、新しいモチーフがあらわれるとそれらはいちいち力強い。モンタージュのような作りで放埒とみえて、各断片が自立する強さをもっているから、寄せ集めが烏合のようにならずに、あちらからもこちらからも軸がのびるようにして立ち上がっている。ジャクソン・ポロックみたいな音楽だと直感がかぎとった。おそろしい着想の音楽で、どうして演奏が成立するのかもよくわからない。よくわからないが芯のないところに芯を打ち立てるやりかたでオーケストラは一本筋をとおした。録音では気付かない弦楽の細かな所作に気づかせる効用もあった。
大団円と喝采のあとに、オーケストラのアンコールがもうひとつ。祝祭の気分がはじける合奏を聞かされて、かえってそれまでのプログラムがどれだけ禁欲的に統制された営みであったかを強調していた。曲目やはりストラヴィンスキーの「火の鳥」フィナーレ。
霧島は鹿児島の南に向かって割れたあの特徴的な湾のいちばん深いところに面した街で、海に向かった街だけれど外洋に開かれていないのが独特の地形のよう。霧島音楽祭は第四十五回を数えて由緒ある音楽祭で、その祝祭管弦楽団が特殊な団結力をになっていることも示された。東京公演はかならずしも毎年の恒例行事ではなく、今年の開催は十一年ぶりだったという。こんな実力あるオーケストラが、期間限定にせよ鹿児島にはあって、鹿児島でだけ聴ける。ゲヴァントハウスの第一コンサートマスターが引っ張っている。なんだかクラクラする話だけれど、それが文化の懐の深さか。
メトロ溜池山王駅はおそろしく蒸す悪い熱に満ちていて、サントリーホールまでの地下通路はいつでも卒倒しかねない地獄の行脚だった。開場とほとんど同時にホールにはいってじっくり排熱した。コンサートのあとは自席でぼんやり余韻をあじわううち、ホールに残された最後のひとりになっていた。時間が去ったことにまるで気づかないことこそ余韻の深さをあらわすようだった。ホールの入口がひとだかりになっていた。ゲリラ豪雨でみな足止めされていた。思い出せば舌打ちもしたくなるひどい気まぐれの天気だけれど、魂が抜けたみたいにぼうっと待つうちに雨がやんで、ぼうっとしているうちに身体は家に運ばれた。熱に浮かれて、動画サイトにある「春の祭典」のトランスクリプションを渉猟して、こんなところにこんな動機が隠れているとアマチュアなりに楽しみにいそしんだ。やがて楽器を爪弾いて自分なりに音型をなぞるうちに、楽譜があればと思い立って、オンライン書店で注文した。それもはじめてのこころみである。
この一年のもっともよいインスピレーションのひとつ。