金曜日の夜、仕事のあとに自転車で池袋まで。日没してなお暑く風はきもちいい。
今村昌平の『にっぽん昆虫記』をみた。強烈な劇をくらくらしながらみた。凡庸な人生の非凡ともみえるし、非凡な凡庸ともみえる。悲劇と喜劇の両方があって、人生があたえる賞罰とは関係なくひとはただあやまちを繰り返す。昆虫とおなじ命のなかにあやまちという言葉はもとより存在していないのかもしれない。
貧農たちの性生活のひとりの産物が主人公である。一夫一妻を押し付けられない女からうまれたその子を役所に届けにいき、父は性的なあてこすりをまじえた笑いの種にされる。「おめ、結婚して二ヶ月で父親さなったんだが」「豚といっしょでねが」大正のことであった。
その子も女に育ち、いちど嫁いで失敗し(彼女は悪くなかったが)生んだ子は父にあずける。白痴めいた父との近親相姦すれすれの肉体的つながり。戦争中は工場につとめ、戦後は組合のしごとにつく。折々に男性と心を通わせるが、再婚にはいたらず、性的経験だけが重なる。戦後の東京でベビーシッターをして、米兵とのあいだに子を作ったモダンな女性の家で家政婦をして、火元の不始末からその子は熱湯を浴びて死ぬ。懺悔を求めて新興宗教にハマり、彼女は素性を見破られたと感じる「前世からの淫婦なり!」
アパートとおもって掃除婦のしごとをしていて、そこが新式の娼館であったことを知る。ことのなりゆきから彼女はそこにいただけの男に抱かれる。宗教仲間とおもって信じた中年女は女衒であった。あれよあれよと抱かれて、女衒がちらつかせる現金。受け取ってしまえばいよいよ売春婦になってしまうと逡巡するが、失いそうになるとその金は自分のものと手を伸ばす。涙の枯れたあと金を数える。
女衒を密告して蹴落とす。成り代わって自分が女衒になる。はじめはシスターフッド式の共同体を志向して独立した彼女たちは、しかし女主人が強欲におぼれるにつけてふたたび女による女の搾り取りと変わる。不道徳な経営が破綻するよりさきに、女は自分が女衒を蹴落としたのとおなじように、売春を告発されて商売を失う。
落ちぶれた彼女を娘がおとずれる。山形の祖父の育てた娘が。はきはきとして素朴な田舎娘。新式農法で開拓民になるために金がいる。婚約者のために資金をあつめている。婚約! 母はおどろく。その金のために、かつての自分の情人が娘を買っていることに気づく。悲嘆。美しい田舎娘にとってさえ身体を売るほかこの世は渡ることができないのか。失望、慨嘆。
しかし娘は死臭のする愛人が騙すのを逆手にうまく金をまきあげて、田舎に帰って開拓民になる。お腹のこどもは夫の子ではない。そう信じたくない弱気な夫。もうどうしようもないと、しかし手段を選ばなかったことの後ろ暗さはまるでなく天真爛漫な妻。
身体を金に交換して人生をつないだ親子二代の女。生命の不屈。昆虫のように虐げられたひとびとが、昆虫の生命の最良の部分を尽くして、生きて死んで生まれ変わっていくことの単調なリアリズム。都市が失った土俗のエネルギー。命のしぶとい昆虫の軽さ。
大学生のころからタイトルこそ知っていても劇場どころかレンタルでも接触できなかった作品がいよいよ手近なところでみられるというので、浮き浮きとでかけた。自転車をおりたあとそのまま映画館の向かいで大汗をかきながら博多ラーメンを食べた。絶句して走った帰り道はぜんぶの信号が差し掛かったとたんに青にかわっていつにないスピードで近所についた。もよりのセブンでレモン風味のカルピスを買って、シャワーもあびる前に一気に飲んだ。