愛するひと、家族と別れることの悲しみをとおして、いちどでも家族のいたことの幸福について考えさせる伝記。

二十歳のショパンがポーランドを離れる瞬間のドラマチックな想像を導入部において、四十歳で死ぬショパンがパリで過ごした後半生を描く。早熟な天才少年として青春を過ごした、ワルシャワ以前の時代のことは省略している。

いうなれば晩年の伝記だ。青春が終わってただちに晩年がおとずれたような人生だ。そして晩年を過ごすようにして働き盛りの時期をかえりみることは、未熟さが全面におしよせる現代にあって有効な立場ともおもわせる。

ショパンは二十歳にして、ふるさとから切り離される。みずから去ったわけではあるけれど、政治のどうしようもなさがそうさせた。青春を懐古して郷愁に暮れる。ポーランドの懐かしさをいつか訪れる革命がかならず埋め合わせることを願いながら、パリで政治的難民として過ごしたことはよく知られるとおりである。

とはいえ、不遇や悲嘆に包まれていたようにはあまりみえない。パリについてわりあい早くに有力なコネクションを手に入れて、みるみるうちに地位を固めて巨匠として成り上がる。幸福な芸術家の肖像である。

ジョルジュ・サンドが幸福な時間をもたらしたことをくっきりと描いているところがいい。愛と友情と尊敬をひとしいものとして扱うふたりの姿がいさましい。出会い惹かれ合い激しい恋をした。やがて連れ添って家族のように浮き沈みを助け合った。まどろむように心地よい関係と生活が九年間続いた。そして唐突に終わった。彼女は去った。

恋人の関係は、健康で若々しい母親が病んで薄弱な息子を助けるのに似た関係に移った。しかしたがいが伴侶と呼ぶのにふさわしい関係ではあった。伴侶を失って晩年を迎えることに切なさはある。円熟した別れにもみえるし、未熟そのもののようにもみえる。結局のところ、成熟も未熟もひとにはないのかもしれない。

この九年間はわたしにとって受難だった。ショパンの健康を保つためにわたしはどんなに苦労してきたか。いつもわたしが全責任を負わなくてはならなかった。わたしは彼の奴隷だった。しかばねにつながれて生きてきたも同然だった。でもまあこれでせいせいする、何とやっかいな絆がほどけたこと!

こうしたことすべてを、ショパンは呆然と見ていた。まさかこんなつまらない誤解が原因でサンドと別れることになろうとは!

ふたたび家族と永遠に別れて、彼の人生はほとんどおしまいになる。病は管理不能におちいるが、それでいて労働しなければ独り身を支えられないから労働する。するとますます病は悪くなる。創作する手も止まってしまった。とはいえ、最後の望みに姉にひとめ会って没することのできたところなど、やはり最後まで幸福はあったようにもみえた。

ショパンの伝記といいつつ、彼に創作の自由と意欲をあたえてうながしたジョルジュ・サンドの貢献にふさわしい強調をあたえているところがよい。彼女のいるあいだ、ショパンの人生にとってショパンは脇役になることができた。サンドがショパンの身体を管理して、病を飼いならした。管理される不自由よりも、管理されて得る自由のほうがおおきかった。その自由のなかでマズルカもポロネーズもたくさん書けた。なんて幸せな時間だろうとおもって、ぼくはぞくぞく読んだ。

もっとも、サンドはしまいには彼女なりの視野狭窄におちいって、ふたりのあいだにあった幸福を停止させる役割もかついだ。しかし幸福を奪って去っていったというのではなくて、幸福をもたらしにおとずれて、時がきたらいさぎよく身を引いたというだけにもみえる。この世にあるはずもない最上の幸福は、ある時期ある場所にたしかにあったのだ、ということこそ重要におもわれる。激昂するのではなくて呆然と見送るショパンの姿に、そのあきらめが色濃く出ているようにみえてあわれである。ひとはこのようにして幸福であったことを知るのだろう、いまある幸福を見つめ直さずにはいられなくなる。

伝統的な結婚に絆をもとめるのではなくて、素朴な信頼と愛情をはぐくんで過ごした。ショパンとサンドはそれができるコンビだった。孤独や貧しさがやってくるまえに、愛にみたされた早い晩年を駆け抜けた。幸せな生涯だというのは敬意にもとるだろうか? ナショナリストやロマンチストとしてではなく、真面目に働き、考え生きたショパンたちの姿がみえる。愛するひと、家族と別れることの悲しみをとおして、いちどでも家族のいたことの幸福について考えさせる伝記。