下北沢ザ・スズナリで燐光群の新作演劇『地の塩、海の根』のプレビュー公演を観に行った。
第一次大戦期、ハプスブルク帝国の公務員、鉄道信号係のピョートルは、皇帝からの手紙を受け取る。徴兵されたのだ。ロシア人がすぐに攻めてくるという。長年つとめた駅からウクライナの農村を旅立って、すぐに終わると聞いた戦争は、数週間では終わらないようだ。ユゼフ・ヴィトリンの小説『地の塩』である。1935年に書かれて、未完になっている。ウクライナに向かってやってくるロシアというイメージ。とはいえ、ヴィトリンはこの小説をポーランド語で書いた。ウクライナには国家もナショナリズムもまだなかった。
2024年、架空の大学講堂。ここで『地の塩』のリーディングイベントをおこなう。リハーサルをしている。参加者たちは現実のウクライナ戦争のことを話す。日本のメディアは「ほんとうのこと」を隠している。でもあなたのいう「ほんとうのこと」は元をたどるとロシア系メディアのフェイクニュースだっていうことがあきらかになっているよ。フェイクニュースを告発する動きだってきまって米英のジャーナリズムで、それこそがフェイクじゃないなんてどうしてわかる? いやはや、なぜ人道問題に関心の深いひとに限って、ロシアに憐憫をむけるのだろうか。このようなことを熱心に(不毛に)話している。
2013年、クリミア。チェーホフ国際演劇祭。クリミア併合の二ヶ月前である。日本の劇団が公演におとずれたらしい、団員が市内をうろうろしている。ウクライナの夫婦にであう。男性は小説家志望。女性はホロドモールの研究者。ホロドモールは、スターリンが第一次五カ年計画の達成のためにウクライナにもたらした人為的大飢饉のこと。男性は『地の塩』をウクライナ語に訳そうと志している。
演劇はこのみっつの時代を行き来する。現代の日本、10年前のクリミア、100年前のハプスブルク帝国。ロシアとウクライナの葛藤が三点をむすぶ。その葛藤はとどまって変わらない。話が噛み合わないことの切なさばかりがあって、悲しみはつのる。おなかの奥にまで届いて響くことばはほとんどない。みんなが政治家みたいにみえる。ふつうのひとが建前と建前をぶつけて傷つきあっている。地の塩はもう効き目がなくなってしまった。そう思わせて暗い気持ちになった。
欧州全土から汚れをあつめて注ぎこんで真っ黒の黒海の燃えること。雷が落ちて燃え上がる海面。そのイメージはおごそかだった。海の根は水の下の土をとおってあらわれた島で、そこにはひとが暮らすこと。根をとおしてつながる先こそあれ、それを本体として支配を受けるわけではない。この象徴もすぐれていた。ピョートルの出征前夜の、農村のしずかな夜の、夫婦と犬一匹のしずかな時間。客席と舞台を仕切るボードに直接腰掛けて、客席の間近で夜空をみあげるさま。無感情な小役人がこのうえなく愛らしくみえる、ひいでた場面だった。