池袋で映画を観た。新作『悪は存在しない』の公開記念特集で、濱口竜介監督の旧作をまとめてみる機会があった。全5本の特集のうち3本までを観た。


『永遠に君を愛す』は東京郊外居住のカップルの結婚式当日の朝の自宅でのやりとりにはじまって、儀式の直前のトラブルを通過して、ひとまずの安堵をえるまでを描く。

結婚式の朝、誠一(杉山彦々)は前夜の飲み会で酔いつぶれている。永子(河合青葉)はひとりで西東京の家を出て錦糸町の式場に向かう。式場で彼女は手紙をしたためる。三ヶ月前の喧嘩のあと、昔のパートナーに会い、セックスをしたと。妊娠した子がどちらの男に由来するかわからないと。彼女は浮気を秘密にして結婚することは悪と信じるが、秘密を暴露することもやはり悪であると感じて、宙吊りになっている。秘密は守られたまま神父を前に儀式のリハーサルがおこなわれる。そのとき誠一がおもいがけずいう。浮気には気づいているが、それでも結婚したいとおもっている…。

これを皮切りに式場で巻き込こるドタバタと、それを乗り越えようとするカップルの葛藤が描かれる。心理描写が長く続いたあとにドタバタ劇に転調して、あちらでは土下座したり、こちらでは淫乱と罵ったりするカーニバル状態になるところがよかった。劇場でも笑い声があちこちであがった。

話さなくてもいいことをつい話してしまう。話してしまったことによって人間関係は苦しい変化をこうむる。話さないことでなにも苦しまないようにすることもできた。しかし話してしまう。ひとたび話してしまうと、うわうわと口から排泄する悪いことばが止まらなくなる。絶対に話さないほうがいいとおもっていたことを話してしまう。そんな汚言症こそ人間の本質であるというような人間観には、説得力がある。

いっぽうで「結婚とはこういうもの」「結婚式とはこういうもの」という先入観を下敷きにして、そこからの逸脱と回帰を描くときの振れ幅はおもったよりもちいさく、いくぶんわかりやすい決着ともみえた。結婚という凡庸な儀礼をなにか特別な、一回きりのものとして立ち上げる、都会の奇習。そこにあんまりノリきれなかった。


『PASSION』は三人の男の群像劇。30代に突入して手に入れかけた社会のなかの自分の足場がほんものであるのかどうかにおびえるようにして、男たちが恋に満たされずに異性をもとめて彷徨する。その三者三様のありさまを描く。

カホ(河合青葉)とトモヤ(岡本竜汰)が10年つきあったあとで結婚する。そう伝えられてひとまず祝福したタケシ(渋川清彦)とケンイチロウ(岡部尚)は、しかし男たちだけの時間がやってくると、トモヤの浮気を触媒のようにして、みながみな複数の恋心を備えていることを知る。それを押し出すことに執着する「男らしさ」が人生の主題にすりかわっていく。

ことばによって現実がつくられる。ことばを通してのみひとはひとを理解する。しかしこちらがことばを投げかけるときに、そのことばが届いたかどうかはわからない。対話は行き詰まりとなる。そのとき暴力が突破する。

中盤にある、カホが勤務先の中学校の教室で、暴力をめぐる問答を生徒たちと交わすシーンは、異様である。群像から切り離されて、観念的に、しかし通俗的に彼女は独白する。暴力には「内からわきあがる暴力」と「外からやってくる暴力」があると。独りよがりのシーンにみえたものだが、タケシとケンイチロウが「内からわきあがる」衝動に身を委ねて女を求めるキスをすることと、タカコ(占部房子)とカホがその「外からやってくる」思いがけないキスを受け入れることは、観念の実現のようである。もっともこの場合、男は暴力し、女は黙って受け入れるという構図になってしまうが…。

衝動の領分に踏み込むことができないトモヤと、衝動を拒否することを望むカホが和解に踏み出す結末もまた、観念に即した円満な決着にみえた。どのひとりをとっても都会的なスタンスを最後には身につける。それをながめて理解してたのしむことはできるけれども、自然主義リアリズム的な逃れがたい不幸が最後には残ったようにもみえて、奇妙な後味がある。


『不気味なものの肌に触れる』は、静かな画面が続いて、それまで修行僧のように禁欲的にみえた千尋(染谷将太)と直也(石田法嗣)が喫茶店でにわかにアドリブ的な対話をはじめたところまで記憶にあるのだけれど、そのあとはすっかり睡魔に飲み込まれてしまった。