早稲田松竹にいった。ジャック・ロジエ監督特集より、長編第一作『アデュー・フィリピーヌ』をみた。続けてロジエの短編二作「パパラッツィ」「バルドー・ゴダール」さらにゴダールの『軽蔑』をみた。

『アデュー・フィリピーヌ』は、テレビ局で生放送のカメラマンの仕事をするミシェル(ジャン=クロード・エミニ)が、アルジェリア戦争末期の戦場に徴兵されるまでの二、三ヶ月を映す。女性ふたり、リリアーヌ(イヴリーヌ・セリ)とジュリエット(ステファニア・サバティニ)は、刺激をもとめてテレビ局でぼんやり出待ちしていた二人組で、たまたまミシェルと出会ってデートするようになる。ミシェルは職場のなかまたちとお金を出しあって車を手に入れて、そのあとおもいきって仕事を辞めてふたりの女の子とコルシカに遊びにいく。

戦争を背景にもっているからもっと切実になってよさそうなところ、葛藤や煩悶とは無縁の若さが騒ぎはじけて、うじうじとしないところがよかった。お金はない、仕事もない、これから向かう戦争も分が悪い。まあまあ悲壮なはずなのに、陰惨でない。そうかといって若者たちは超然としているのではなくて、ただ埋没している。過去も未来もない。カメラがそこにあってひとを映しているのに「あなたはいったい誰ですか」「どこから来ましたか」「どこへ行きますか」と尋問しない。そこが不思議に優れた映画とおもう。

「パパラッツィ」「バルドー・ゴダール」は『軽蔑』のロケのためのカプリ島滞在を題材にしたノンフィクション。『軽蔑』の映像特典くらいにおもってながめた。楽屋裏である。

『軽蔑』は映画づくりの話。老フリッツ・ラングは『オデュッセイア』を題材に映画を作ろうとしている。アメリカ人のプロデューサー(ジャック・パランス)はその脚本を大衆向けに書き換える仕事をポール(ミシェル・ピッコリ)に依頼する。ポールは引き受ける。撮影所にポールを訪ねてくる女性がいる。妻のカミーユ(ブリジッド・バルドー)だ。しかし彼に会いにきたカミーユがなにか話そうとするのを折って、ポールは彼女をアメリカ人の車に乗せておいやる。これが最初のすれ違いにして、「軽蔑」の端緒である。

もっぱらポールが情けないばかりである。奥手な男がひとりでうじうじ話し続けたかとおもうと、にわかに激昂して女を殴る。そうしておいて、去ろうとする女に追いすがってめそめそした説教を続ける。女のなかに育つ感情は「軽蔑」と名付けられることになる。

どこかで聞いたことのあるような失敗した結婚のものがたりは、おもいがけず強靭堅固である。おりおり画面のなかに鎮座するフリッツ・ラングの存在感がそうさせている。夫婦生活のたどりつく運命の悲劇を『オデュッセイア』から引用していることがそうさせている。モダニティがほとばしっている。

毅然と別れを告げ去るカミーユに、さいごには死の運命が訪れることも、夫を捨てたことへの懲罰とは直接みえない(とはいえそうみえたとして不思議はない)。死によってかえって死の運命から開放された開放感さえある。悲劇はポールのおおきくかしこい頭のなかにだけあって、カミーユのなかにはもとよりすこしもなかったのかもしれない。