ひとつの主観がこうだと直観して語った世界がこれほど豊かでまぶしくなりえるというおどろきに満ちた一冊。

岩田さんはおろか道元というひとにさえなにひとつ知らないところから読み始めました。どうして巡り合ったか。ひとがこれを図書館で借りて読んで感銘を受けたようすにほだされたからです。そのひとがどうしてこれを借りるにいたったかは知りません。すなわち機運です。

岩田さんと道元をとびこえて、一挙に仏の存在が身近にあふれたように感じます。いや、仏のありがたさが自然と空気のなかに充満していることを頭で理解したいとつとめるばかりで、その本性を悟るには縁遠いのですけれども、坐して心をしずめればそこここに仏がおられるという事実は心にすっとはいってきてなんの抵抗もありません。

岩田さんは卓越した文体家です。道元の理知のようにきびしく張り詰めて鋭いところがあるとおもえば、一瞬の光景をつかみだしてそのままがばりと提出する夢想的行動家たるところもあります。ここに散文の文体のうちもっとも優れた例のひとつを発見したとぼくはおもいます。衒う心のないことがもっともそれを可能ならしめているともおもいます。

いくつかの断章を示します。このようにするのはこれらの言明の質量をうけとめるにはぼくは小さすぎて、要約整理のちからがおよばないためです。しかもこのようにして掲げようとメモを引き出してなお、なにをいわんとされているのか半分わかって半分わからない、いや半分もわかっていないかもしれないありさまです。ともかくページ番号はいずれも講談社学術文庫版より。

宗教的生活というのは、共同体、部族、民族、人類のなかの一人として、自然の万物と共存する一人として、生きなければならない。たんに個人として生きるだけではなく、同時に自分を超えた世界に生きなければならないのである。しかも、その自分を超えたものが自分の内部にもあって、それあるがゆえに自発的に、自由にもとづいて超個の行為ができるのだとすると、何はともあれ、先ずは自分のなかの自分ならぬものに対面しなければならない 37

仏法は、あるいは人間の真実は、もともと言葉の及ぶところではないのだから、沈黙すればよいのかというと、違うのである。真実の姿を見たのなら、それを「言え」と迫るのである。言えないのなら、おまえの見たものは幻影にすぎない。そういって止まないのである 135-136

大地をおおって空がまわり、空をかざして大地がまわる。二つで一つ、一つで二つなのである。といって大切なことはそういう論理、理屈を覚えることではなくて、それがそうみえる場所からそれをみることなのである 193

自分とはそもそも何物なのか。これが問題である。道元はそれを、自分が自分を見る。内を外に見いだし、外を内にたしかめるという構造のうちにとらえた。それがわれというものの根本構造であるとした。しかし、構造、機構はそうであっても、それだけでは生きているわれの姿と死んでしまったわれの姿との区別がつかない。それでは生とは何か。自分が生きるとはどういつことか。それは参与すること、問うことである、と道元は答えたのである。問う、自らに問う。それにたいして自ら答える。自問自答する。それが参与を深めることであった。それなら、一体、どこに参与するのか。それは自分の内部にであるけれども、それが同時に万物共存の場に参与することであった。そうすると「尽十方界是箇真実人体」、つまり全世界がわたしの身体、という答えがかえってくるのだった。自分とは何物だろうか。草だろうか、木だろうか、虫だろうか、魚だろうかという問いにたいして、常に「その通り」「然り」という答えがかえってくるのであった。世界の全肯定である。それがもっとも端的な知の世界であった 232

一般に功徳といえば仏を念ずることによって現世利益をうることのように見做されているが、ほんとうの功徳、最大の利益はわれわれが自由自在におのれの視点を変換しうることである。蝶のようにヒラヒラとひるがえって、あるときは山水になり、あるときは草木になる。あるときはカラス、あるときはトカゲになる。おのれを翻転し、おのれを化して万物のなかに生きる。これが功徳である 262

そのとき、坐りながらわれわれは何を考えたらよいのか。思量か。不思量か。あるいは非思量か。それはそれとして大問題かもしれないが、先ずは身体の形をととのえることが何よりも大事である 288

世間一般の無常観を一歩踏みこえて、無常を観ずる自分自身をも、その無常世界のなかに投げ入れよ 301