法然の思想に惹かれて足を運んだものにとっては裏切りとみえる展覧会で、正しくは「浄土宗ゆかりの宝物」くらいの要約になろう。精神性は浅く、物質主義にかたむいている。
焦点の定まらない展示である。法然展というわりには、法然の事績にふれるのは入口ちかくのすこしの空間だけ。残りは「極楽浄土のイメージ」「法然の後継者たち」と展開して、最後にすこし寺社の紹介がある。
源信にせよ法然にせよ証空にせよ、なにをおもって称名念仏に心を向かわせたか。またこれらの時代のひとびとがどうして浄土に惹かれたか。それをさしおいて、これは国宝、これは重要文化財、と物質ばかりをみせられて、いったいなにを受け取ることができようか、と疎外感をもたずにはいられなかった。
作品の質にもむらがあるようにみえた。由緒正しいものが参集していることに疑いはないが、状態のよくないものもおおい。修繕なりクリーニングが行き届いていなくて、ほとんど真っ黒の、地と柄の区別がほとんど区別なくなっていたりする。地即是柄、柄即是地というと金言めくけれども、心の眼でみよといわれているかのような居心地はすこぶる悪かった。
たとえば国宝の「綴織當麻曼陀羅1」が出品されている。巨大で繊細なアーティファクトながら、色彩の劣化はなはだしく、あげくガラスケースにしきられて、まるで鑑賞には向かない。証空が拝んで感激したイコンはこのような姿をしていなかったはずだ。修理の記録として会場のキャプションは1677年のことに言及している。それから350年、手つかずなのだろうかとおもいをはせた。もっとも、永遠に失われるよりは、悪い状態で継承できるほうがどれだけ素晴らしいかということもできよう。
他方で、新しく修復されたアーティファクトは、まぶしい光をはなっていた。「阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)2」がそう。おそるべき速度で降下する雲にのって、阿弥陀如来が迎えに来てくださる。その速度と勢いがあわてているゆえのものでないことは、風さえないかのように粛然としかし穏やかな立姿をみせる如来の姿があらわしている。消えする心を呼び起こすたっとさである。南無阿弥陀仏。
「阿弥陀三尊来迎図3」「山越阿弥陀図屏風4」も同様に素晴らしかった。色彩がよかった。
フェルメールの絵なりとは違って、作家を顕彰するものでなければ、システマチックに観覧料を集金して通年経営するものでもないから、修繕機会にめぐまれないということはあるのかもしれない。ではせめてこの展覧会の収益が再投資に向けばよい。
そうはいうものの、展示は表題に反して法然の事績を収集したものでないし、極楽浄土についてさえ満足いくコンテクストを提供できていない。目的が定まらないばかりでなく、国宝か重要文化財というレッテル以外に出品物の価値を伝える努力にさじを投げているとみえた。ひとりの研究者の名前もなしに、随筆的な作文があるだけでは、博物館とスーパーマーケットになんの違いがあるだろう。
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奈良、当麻寺のウェブサイトでは「損傷が激しく現在公開されていません」とあるが、それが公開されている。http://www.taimadera.or.jp/about/aw/taimamandara.html ↩
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京都、知恩院。https://www.kyohaku.go.jp/jp/collection/meihin/butsuga/item06/ ↩
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京都、金戒光明寺 ↩