日曜日の午後に早稲田松竹でエドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』を観た。

ふたつの少年ギャングの抗争のピークに虐殺事件がおこる。それをひとつの到達点にしてぼくは画面への集中力を失ってしまって、映画の後半をまったくたのしむことができなかった。蛇足としかおもえない時間を過ごす苦痛が長く続いた。最終盤にあらわれる、ほんとうの主題であった殺人事件に結実する心理は、ぼくが蛇足とおもった時間を費やすにあたいするものであったかもしれないとおもった。しかしそれに気づいたときにはもう遅かった。

スクリーンのなかで誰が誰であるかをアイデンティファイすることがすこぶる難しかったことはいえそうだ。それが没入をさまたげてしまった。日本語字幕で映画をみるときに、人名は漢字で表示され、最初の一回だけはルビが振られているけど、二回目からは名前の読みがわからないようになる。するとたとえば「滑頭」という人名を話していても、いったいどう心で読めばいいかわからないから、おのずと登場人物たちとのあいだに距離ができる。それでは夢中になれない。いっそ英語字幕でみたかった。

登場人物たちにとってのほんらいの原理は身体の動きと言葉の響きによって十分に表現されていた可能性はある。もしそうであったなら、ぼくは字幕の伝える情報によってのみ映画を理解しようと試みて失敗した。しかしきょうのぼくにはそのようにしか映画をみることはできなかった。この映画にはまだ招かれていないということだったのかもしれない。