池袋の新文芸坐でグレタ・ガルボ出演のサイレント映画特集をみた。

ハリウッドでのデビュー作『イバニエスの激流』とその翌年の『肉体と悪魔』の二本。活動弁士がついて、映画の語りを自由におこなうスタイルの上映でした。どちらの作品も完全無音ではなくクラシック音楽の録音による劇伴があって、そのうえで活弁士が台本を演技しました。

『イバニエスの激流』は、スペインのバレンシア地方の話。階級のことなる若い男女、ラファエル(リカルド・コルテス)とレオノーラ(グレタ・ガルボ)が恋をしています。しかしラファエルの母は階級差婚をみとめずに、彼がオレンジの花を送って愛を誓った相手がパリへと出奔せざるを得ないように追い込みます。やがてレオノーラはパリの社交界でスターとなり、あるきっかけで故郷の村にもどります。そこで若い「立派な」代議士となって新しい婚約者にオレンジの花を送るラファエルの姿をみたのでした。

『肉体と悪魔』は、第一次大戦前のドイツの話。やんちゃ気質のレオ(ジョン・ギルバート)と実直なウルリッヒ(ラース・ハンソン)は幼いころからの親友です。軍隊でのしごきに一緒に耐えたあと、帰省中の故郷でレオはフェリシタス(グレタ・ガルボ)をひと目見てたちまちとりこになります。彼女が人妻であることを知ったのは一夜を過ごしたあとでした。決闘で夫を撃ちたおして、ほとぼりが冷めるのを外地で待つレオ。そのあいだの未亡人の世話をウルリッヒに依頼します。はたして帰国したレオを迎えたのは、夫婦となったフェリシタスとウルリッヒでした。しかしフェリシタスはかつてと同じようにレオを誘惑し、苦悩させるのでした。

どちらの映画もグレタ・ガルボを妖艶で奔放な女性として演出しています。自由な女性像としてではなくて、男をまどわす悪女としてコンサバな価値観に組み込んでいます。時代に染みついた純潔主義を逆説的に象徴する女性像です。

『イバニエスの激流』のレオノーラは、純愛を信じる田舎娘が都会に出て身を持ち崩した、というプロットを主にしています。彼女は周囲に批判されながらも、ラファエルとの若い恋のおもいでを誰にもいわずに守っています。映画は彼女の性的大胆さをうがった視線で描きますが、百年後の目でみると、ふしだらなレオノーラが誘惑したというよりもむしろ、いくつになってもやりたい盛りのラファエルがおじさんになったらもうやれなくてがっかりする話、というようにもみえました。いや、もともとそういう話だったのかな。

『肉体と悪魔』は、もっとひどい映画でした。男たちが好き勝手に恋にとらわれて果たし合いだのなんのと恋のから騒ぎしたあげく、いやあやっぱりあの女がいちばん悪いじゃないか、おれたちはまた協力しよう、そしてあの女には消えてもらおう、といわんばかりの、ミソジニーの定義そのものの結末にたどりついて、フェリシタスは誰にも惜しまれずにひとり溺れ死ぬだけです。こんにちの目でみるとあんまりひどい映画ですが、なにぜ百年前のことだから「いやあ、なんてひどい映画だ(笑)」というくらいの感想にしておくのが穏当かもしれません。

活動弁士のおふたり、山内菜々子さんと澤登翠さんは、豊かな声色を使いわけて俳優たちをひとりで演技しました。映画のそとからきていると感じさせない声のありようで、映画に没入することを助けてくれました。澤登さんは山内さんの師匠でもある実力者で、ちかごろ足の故障でしばらく仕事をお休みになられていたのを、この日を足がかりに復帰に向かわれるとのことでした。山内さんの弁は引っ掛かりなくすっときくことのできるパフォーマンスであったのに比べて、澤登さんはセリフとト書きの倒置のしかたや語りのペース配分に独特なスタイルがあるように聞こえました。スタイルの濃淡はあれど、どちらも素晴らしい演技だったとおもいます。もっとも、澤登さんのように濃度のたかいスタイルがあってこそ芸は身を助くのかもしれません。師匠の癖をただ継承することが求められる世界ではない場所で、師弟関係を築きつつ自分のスタイルを求めることは易しからざる営みだろうと思いを馳せました。