NHKホールでN響の定期演奏会を聴きました。
今年はブルックナーの生誕200周年といって、記念コンサートのようにしてプログラムが組まれることもおおいみたいです。ぼくはというと、ブルックナーを聞いたことは、コンサートはおろか録音でさえいちどもなかったんじゃないかとおもいます。記念の年といって雑誌とかで特集記事がつくられているのをみて興味をもった口です。
きょうの演目は、交響曲第7番です。生前の作曲家におおきい評価と成功をみちびいた作品だといいます。作曲の過程、第2楽章の構成中にワグナーが死んだことが逸話として語られます。ブルックナーはワグナーに熱狂していて、バイロイトに彼をたずねて感激したのだそうです。
これらの逸話は、図書館で借りた録音ディスクのライナーノートに書いてあったことです。チェリビダッケ指揮の、歴史的な演奏だったとその文章は自画自賛していっていました。ぼくははじめてきく交響曲の予習をするのにこんなにふさわしいディスクはなかなか見つからないんだろうとおもって聞きました。が、あたえられたのは困惑ばかりでした。狼狽して、第一と第二楽章を二度聞き直してもなお、断片的で焦点の定まらない様子に感じてしまったのです。ゴダールのやりかたを音楽で試みたらこうなるかもしれない。しかし、ぼくがブルックナーに期待していたことはそういうことではなかったこともたしかだったのです。
そういうことがあって、たのしめるかどうかすこし不安におもいながらNHKホールにいきました。座席はAプログラムとおなじ左側最後部です。開演前にはベートーヴェンの「2本のオーボエとイングリッシュ・ホルンのための三重奏曲」のミニ・プログラムがありました。ほがらかな演奏でした。
ビオラの奏者がおひとり、ステージで開演時刻ぎりぎりまで音出しをしていました。いくつかの旋律はこれからかかる交響曲のものだと気づいて、きれいだとおもいました。ぼくはだんだんと浮き浮きしてきていました。
オーケストラが登壇して、調音します。そのあとすぐに指揮者はやってこず、一分強ほど無音の時間になります。エッシェンバッハがあらわれると拍手がおこり、彼はゆっくりとステージをあるいて指揮台にのぼりました。そうそう、開演の直前に指揮台に添えてあった譜面台が舞台袖に引き上げられるというシーンもありました。暗譜で指揮することはリハーサルでは定めていなかったのにたったいまそう決めたのだろうかと不思議におもいもしたのでした。
さて、演奏です。エッシェンバッハは第一音目からオーケストラの最良の音を引き出していたようにおもいます。おどろくほど繊細でしかも力強い主張があり、それでいて楽器間のバランスがよくとれていました。冒頭数分の演奏は、これを聴くことができることの多幸感でぼくを満たしました。目がうるんでしまい、それにつられてさらさらした鼻水がとまらず、でもすする音はたてまいとずっとぬぐいながらの第1楽章でした。楽章さいごの音の残響がきえたあとも、エッシェンバッハは両手を組んで顔のまえに掲げて、指揮棒が天をさしたまましばらく恍惚としたような静止状態があり、会場はただならないおごそかさで固まりました。
第2楽章から先もすばらしかった。ステージをみつめて気がついたこと。コンサートマスターがときに腰をあげんばかりの前のめりな情熱で音楽を牽引しています。その斜向かいで首席チェリストもまた劇的感情をあらわにして音をはりあわせています。前者は川崎洋介さんといって、今月からN響のゲスト・コンサートマスターに就任して最初の出演だったとのこと。後者は辻本玲さんで、昨年の東京・春・音楽祭「ベンジャミン・ブリテンの世界V」1でチェロ協奏曲の講義と演奏に出演されていました。
すばらしいオーケストラを満足して聞き終えたあとに、やっぱり断片的な音楽だという印象はあります。旋律のひとかたまりがおおきくて、口ずさむにはおぼえておくのがたいへんだし、なかなか歌いきらせてくれません。モチーフが長くなるということは、あとは解体を待つばかりでしょう。ブルックナーはみずからモダニズムに踏み込んでいたとまでぼくはいいませんが、次の時代の準備にはたずさわっていたように聞こえます。そういう見立てでもういちどチェリビダッケ指揮を聴いたら、はじめとは違う印象を持つでしょうか? どちらにしても、この交響曲は一夜にしてたちまちぼくのお気に入りの曲となりました。