記憶ときくとぼくは個人的な思い出にむすびつけてなにかをおもいだそうとするけど、記憶と思い出はちがう言葉だ。

記憶ときくとどことなく湿っぽいかんじがぼくはするけど、たぶんそれも思い出の連想に引っ張られて、過去を追いかけるノスタルジアが幻惑しているようだ。でも記憶と思い出をならべて舌のうえで意味をころがしてみると、思い出こそ湿った幸福感のかたまりとおもわれるのに、記憶は悲しいこともおおくふくんでいるよう。

記憶のことを英語ではなそうとおもったときにぼくの選ぶ単語と思い出のことをはなそうとおもったときに選ぶ単語はひとつで、それはコンピューターの記憶のことをいうのとおなじ語彙だ。けども、この展覧会はそっちではなく「リメンブランス」とこれをよんでいる。

記憶があればぼくは身体がしらないはずのことも思い出すことができる。死んだ祖父母の家の庭の倉庫の奥に何竿もたんすが押し込められていて、いちばん奥のふたつは鍵がかけられていた。つくりの貧弱なその鍵をたんす屋がたやすく解錠してぼくたちはなかをみた。祖父の先妻が手作りしたアルバムがあった。血のつながっていないそのひとのモノクロの少女時代のポートレートがあって、結婚式のすました肖像写真があって、遺書があった。「ごめんなさい。でもどうかあなたの家の墓にいれてください」と書いていた。それで彼女は自殺した。彼女が不在になったあとの世界で、彼女は墓石の端にいじわるく名前をおしのけられて、祖父によってほとんどいなかったことにされた女性としてぼくたちは記憶してきたが、その前にあった世界に彼女が残した痕跡をぼくたちはいま記憶している。

記憶と呼んでこの展覧会が提示したものは、たぶんそういうもののことだとおもう。写真は誕生日を記憶する。写真は家を記憶する。写真は津波を記憶する。写真は非武装地帯を記憶する。写真はサハリンを記憶する。伊藤博文暗殺の乗降場を記憶する。南満州鉄道沿いの炭鉱のまちを記憶する。上野彦馬を記憶する。チャンパ王国を記憶する。背景に生きた女性たちを記憶する。