3月17日(日)に池袋の新文芸坐で濱口監督のおおきな映画『ハッピーアワー』をみた。
「余計なことを言いたない。言葉にしたら全部違う気がしてしまう」というセリフが劇中にあった。そのことはよくわかるとおもった。もっとも、ぼくはそんなときに「余計なこと」をつい話しはじめてしまって、それが傷口をひろげてしまったと回想する思い出のほうがおおかったようにもおもうわけだが。
『ハッピーアワー』をみおわってなにかをいうことこそ「余計なこと」と思わずにはいられなかった。映画が控えめに語ろうとしたことはすべて映画のなかにとどまっていた。もういちど観たいと願った。とはいえ、六時間の上映(休憩含む)をもういちど走りなおすには時間がいる。
このまえ松江で昔の友達にあったときに、さいきんみた映画といって『ハッピーアワー』の話をした。彼はこれをブルーレイで持っていて(島根では上映機会はないはずと覚悟を決めて買ったらしい)、ナースふたりがインスリン量のダブルチェックに失敗する場面の話をした。
『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』は、『ハッピーアワー』の副読本として劇場で紹介されていた書籍。三部構成でなりたっている。第一部は『ハッピーアワー』が企画され、演技経験のない17名が「カメラの前で演じること」を目標にどのような工夫をしたかを、監督が書き下ろす。第二部は最終版の脚本とよばれるものを収録する。第三部は脚本の外で登場人物たちの関係性を語る「サブテキスト」を脚本形式で十本収録する。
映画をみたときのことをおもいだしながら第二部を読んだ。クラブの喫煙所にいた未成年の女性が「ユキ」であることを脚本のおかげでわかった。「桜子」が「風間」の電車におもわず飛び乗ったときに「風間」といた悲しげな女性が「淑恵」だったことも。二次創作をたのしむファンの気持ちで第三部を読んだ。読んだ想像のなかで人間関係がいきいきと色づいて、キャラクター(と彼らを演じる俳優たち)にやわらかい思い入れができていることを感じた。
もっとも印象深い記述は、第一部の「聞く」ことをめぐる述懐となる。演技は誰にでもできるが、それは演技がむずかしくないことを意味しないと注意深く語りながら、語り手は「恥」と「聞く」というキーワードを浮かび上がらせる。
ひとにはかならず「いえないこと」がある。秘密だからいえないというわけではない。それをいうと嘘みたいに響くことは、いえない。それを口にだすのが恥ずかしいとおもわせるたくさんのこと。恥を捨てて開き直るように自分に命じることはできる。そして思い切っていってしまうこともできるが、カメラの前にひとを立たせて無理なセリフを言わせると、それが演者にとって言い慣れていないことばであることをカメラはかならずあばく。これでは演技はうまくいかない。それが「恥」。その「恥」を捨ててしまうことをいさめて、こう語る。
要求されているのは、恥を捨て去ることではない。自分自身のもっとも深い恥によって、自分自身を支えること、助けることです。(..)それは一人の生活人である我々にとって、あまりに過酷なことだ、という気もします。このとき、今までずっと言って来たような「聞く」ということが助けになるのではないか、という気がします。
「聞く」こととは、津波の被災者へのインタビューから浮き出したものだということが説明されている。「被災者」としてカメラの前に立って「恥」を感じないことは容易でない。「沿岸部の人たちのことを思えば全然たいしたことない」「家を流された人を思えば、うちは随分マシだ」「親しい人や家族を亡くした人のことを思えば、落ち込んでいられない」そして「波に呑まれたあの人はどれだけ苦しかったろう」と想像を煮詰めると、口をつぐまずにはいられない。ましてカメラに向かって被災体験を語って、自分の声が被災者代表のようになることは、どう考えてもおぞましい。そのことを発見して、インタビュワーは変わった。「話させる」のではなく「聞く」ほうへ。
「聞く」ということ自体、対話の相手を通じた自分自身への吟味なのだ、ということです。「聞く」ということは自分自身を変革すること、捨てることなんだ、と小野さんは何度も言われました。結局のところ「聞く」こともまた、とても過酷な行為です
しかし、その過酷さに押しつぶされてしまったときにどうしようか、ぼくは答えをもっていない。上の述懐にはすこし偽善か盲点があるのかもしれない、といま引用をまとめて考えなおしています。「聞く」ことの強調は、ついには撮影者と被写体のあいだにある権力勾配を反映して、「聞く」というダミーで「話させる」という使役を隠しているんじゃないかと、受け付けにくいところがでてきました。
こんなに悲しい話はどうか聞きたくない、逃げ出してしまいたい、と強く感じたときのこと。ぼくはそれでも、どれほど苦しくても「聞く」ことを続けなければいけないと自分に命じようとして、かえってみずから支えを失わせた思い出があります。つまるところ、吟味というよりも対話の失敗だったのでしょう。ひとりが話し続けて、もうひとりが聞き続けるということは、なるほど対話とはみえません。しかし対話から離れて「聞く」ことだけがあるはずもありません。「聞く」ことがひとを苦しめるときに、ただ「聞く」ということはいつまで可能であり続けるでしょう。これは別に筆者が嘘をいっているとか論理が不十分だと詰りたいわけではありませんが。
引用した記述が、もっと「聞く」ことを徹底せねば、と考えさせることの不毛さを確かめたい。言い換えると、ひとはすでにどれくらい「聞く」ことができていて、どれくらいたやすく「聞く」ことを放棄することができてしまうのか、いちどよく考えたい。誰もなにも聞いていないのであれば、「聞く」ことは本書がするように強調されるべきだけれど、そんな世界はどんなに悲しい場所だろうとおもいます。「聞く」ことに気をとられて、自分から「話す」ことがむずかしくなっていることの苦しさをこそ、よく見つめないといけないのかもしれません。理想の聞き手というものはそう簡単にみつけられないものですから、聞き手を待たずに話し始めるにはどうすればいいだろうと考えます。でも、そんなことは可能なんでしょうか?