『月の砂漠』『東京公園』『レイクサイドマーダーケース』『サッドヴァケイション』の四本の上映が早稲田松竹であった1。週末と平日夜の時間をうまく使って一回ずつみた。
『月の砂漠』は、ドットコムバブル末期の東京でうつろにいきる IT 起業家の話。深夜番組に出て自己愛に満ちたメッセージを発する永井(三上博史)は、メディアと二人三脚でつくりあげた「成り上がり志向の若者のヒーロー」としての虚像の陰で、妻と子に逃げられた性的没落者としてのアイデンティティクライシスを迎えている。おじさんでロマンチストだから、なんとも好ましくないキャラクターだ。もっとも、好ましくない者こそ主役に値するのかもしれないけれど。男の失敗の尻拭いを妻子にしわ寄せして強制的な大団円とする筋書きにみえて、いまのぼくには受け付けられなかった。夜の都心のウェンディーズでひとりビールとタバコとハンバーガーで自分をなぐさめながら、逃がした妻子のホームビデオをみじめにみつめる永井の姿はよかった。そこにだけほんとうの永井の姿があった。最後に「よき父」「和解」を目指そうとする永井は、会社に代えて家族というあたらしい虚像を作り直そうとしているだけにみえた。それが彼の進歩だとはおもえなかった。
『東京公園』は、カメラマン志望の学生(三浦春馬)が、性的不能感にさいなまれた歯科医(高橋洋)に金をもらって隠し撮りをする話。家族の情の話が見え隠れして、この監督の作家的執着はどうやらそこにあるようだと察しがつく。隠し撮りが主題のひとつでありながら、好青年然たる俳優をマイルドに映すからあまり殺伐とせず、あかるい公園での撮影もおおくてからっとしている。演技もおだやかで、落ち着いた映画にみえる。中盤でつい眠ってしまって、気がついたら主たる転回点は過ぎていたようだった。あいまいな印象のまま幕引きになった。
『レイクサイドマーダーケース』は、私立中学校の受験対策に夏の湖畔コテージにあつまった三つの家族の話。並木(役所広司)はのぞんで妻子と別居している。妻(薬師丸ひろ子)とのあいだに愛を失っている。両親の不和を埋め合わせるように一人娘を私立中学に入学させようとする妻の考えに並木は否定的で、受験対策の合宿にも懐疑的である。あくまで受験本位の教育方針を曲げない関谷(鶴見辰吾)にも藤間(榎本明)にも、塾講師の津久見(豊川悦司)にも消極的な軽蔑をみせている。そしてその軽蔑は並木の視点をとおして観客にも共有されていたからこそ、並木が同輩にそそのかされたとき、観客の期待にそむいて堕落にはまっていくさまを「あらら」とスリリングにみつめずにはいられない。並木が軽蔑心にいだいている「あいつらはおかしい、おれは普通だ」という意識こそ凡庸であり脆弱であるということは重要そうだ。「マーダーケース」の真相は二転三転とするが、いずれの転回点も「家族の情」のような薄い糸をことばの論理だけで補えたようにみせかけていた。「もうひとひねり」が無限に可能であるという点で、決着感は薄かった。「真相とはもっとも反駁不能な仮説である」とするならば、映画が並木に反駁を止めさせた時点で真相は確定するわけだ。ことばは嘘をつくということを意識しすぎると、どこにも到達できなくなる。藤間が並木の妻をねぎらって「ブンダバア、すばらしい」とつぶやくところがどことなく滑稽でよかった。
『サッドヴァケイション』は北九州で中国からの密入国斡旋に関わる健次(浅野忠信)が、幼いときにアル中の父を見限って自分もろとも捨てた母(石田えり)をみつけて、復讐をこころみるはずがかえって籠絡されそうになり狼狽する話。これは二年前にみて壮大な映画だとおもった。こんどは分析する目ではなくのんびりながめる目でみた。起こっていることは悲劇であるが、母は楽観主義者でそれを悲劇とみなさない。その適当な楽観主義こそ、健次をして反発せしめることもわかる。しかし映画が語っていうには、反発は破滅をまねくようだ。勇介(高良健吾)は反発したから死に、健次は反発したからジェイルにいった。中国人マフィア(本間しげる)のまくしたてる日本語の、脅迫しておそろしいのと文法が壊れていて滑稽なのとの絶妙な加減がよかった。