佐倉市の川村記念美術館にいった。

ジュールズ・オリツキーの「高み」というおおきい絵がすごくよかった。ロスコーの圧迫する暗い色彩の部屋から次にすすんで、階段をのぼった最初の部屋は自然光がはいりやすいデザインでひとつ前の部屋とあかるい対照になっている。左右にふくらむ窓ガラスがあって、右には白い森、左には黒い森がみえる。日差しはない。右からきた白い光を展示室が濾過して通している、みたいな。それで真ん中にどんとおおきいキャンバスがある。光がただ写されたような絵。朝もやのようにまぶしくもみえるし、夕立のあとの泥っぽさがまじって汚くもみえる。もし人間のいない土地があって、そこを隠れてのぞきみることができることができたなら、きっとそこにはこういう景色があるだろう。風と光と土とが、人間によってなにも乱されることもなく、のびのびと混ざりあって、決して人間の目にみることのできない美しい像をつくるだろう。そういうロマンチックな想像を透かしてみせるまぼろしのドアがこのキャンバスの機能だった。ふりかえってキャプションをみた。それでみた、ジュールズ・オリツキーの「高み」とある。峻厳、孤絶の感。なにもないからこそすべてがあるという想念。ポロックの色彩の自由さに似ているかと比べて、オリツキーには線がないとおもった。線がないとは傷がないこととも。

アメリカでパートナーがストレスにさいなまれていた。おのずと明るくない話題がふえて、できるだけ聞き遂げたいとつとめることと、聞き続けることはぼく自身を苦しくさせることのジレンマでもの悲しい日々のなかでもあった。新年度の最初の土曜日はどこか外にでよう、できれば混んでいなさそうなところに、というように出かけた。

晴れたらバイクに乗ってびゅんと佐倉市まで走ろうとおもっていたけど、天気はそれを祝福してくれなかった。八重洲からバスでいった。バスの車窓からみる高速道路の景色がよかった。ほとんど寝ているうちについた。

美術館につくと雨。自然は気持ちいいはずなのに、晴れ晴れした気分にはならない。昔にいちどだけきたときのことをおもいだして、そのときにいっしょにきた友達はもう死んでしまった。それもやっぱり悲しかった。せめて晴れてくれてたらなあと。そんな調子で館内にすすんでも気分はのらないものだ。ボナールもマティスも、こちらが浮足立ってよくみえなかった。アブストラクトの度合いが増すにしたがって、現実の感情をわすれてみつめることができた。彫刻ふたつ、ブランクーシの「眠れるミューズ」とジャン・アルプの「臍の上の二つの思想」がよかった。イヴ・クラインの「青のモノクローム」もよかった。筆に意味をうませないのがよかった。途中の休憩室で抹茶と茶菓子。茶菓子はモザイク状に刻んで並べられたようかん。すこしだけゆっくりたべるのがよかった。

そのほか、ポロック「緑、黒、黄褐色のコンポジション」、李禹煥「線より」、モーリス・ルイス「ギメル」、中西夏之「R R W 4ツの始まり 3」、フランク・ステラ「トムリンソン・コート・パーク 第2バージョン」などがよかった。

特別展はカール・アンドレの彫刻と詩作品の展示。特別展示室にすすむまえの細い窓からななめに正面玄関とその向こうの噴水を見下ろせるようになっているのをみつけて、しばらくたたずんでながめていたら、黒い点が視界で動くのに気づいた。虫がいて、窓の外でかすかに動いていた。オレンジと黒のちいさな虫のつがいだった。じっと動かない一匹の背後で、ひとまわりちいさいもう一匹が一生懸命に体位を変えねばともぞもぞ動いていた。一時間後にもういちどたしかめにきても、変わらずそれを続けていた。生命はただあたえることだけができて、痛みもまた贈り物であるというように。

帰りのバスもよく眠り、夕方に八重洲に帰った。お昼を結局たべそこねて腹ペコだったけれど、コンビニで食事はすませたくなくて、高円寺に帰るまで我慢して、チョップスティックスで牛すじのフォーをたべた。