ヒーローとヒロインがふたりとも死ぬことを望みながら死に近づいていってとうとう死を成就させる話。

愛がふたりを駆り立ててそうさせたとはいっても、あとに残されたものにとっては失わなくてもいい命を失わせたと感じさせる様子があって、後味はよくない。もっとも、悲劇とはそういうものだ。

序曲を録音で聞いたことがあるだけで、通して聞くのも生演奏で聴くのもはじめてだった。主役のふたりよりも、助演のマルケ王(ヴィルヘルム・シュヴィングハマー)と侍女ブランゲーネ(藤村実穂子)の歌に存在感があって、彼らが登場すると舞台がかならず引き締まった。トリスタン(ゾルターン・ニャリ)とイゾルデ(リエネ・キンチャ)のふたりはそれに比べてすこしインパクトを欠いてしまうようにみえた。

台本と演出にいまいち説得されなかったことが、主役ふたりの歌唱と演技の印象を決めてしまっているかもしれない。ふたりの愛の陶酔は、なんだか受け付けなかった。「わたしが死んだらあなたも死んでくれますか」というメッセージに愛を意味させることは苦しかった。「生きることは苦しむことである」というテーマがチラチラとみえて、それは現代的なメッセージになりえるとおもったのだけれど、それが「苦しみから自由になるには死ぬしかない」という短絡に向かうことを、演技か演出がコントロールする余地はもうすこしあるんじゃないか。

島根旅行から帰ってきてすぐ翌日に長丁場の舞台をみようとして、集中する体力を欠いていたということはできてしまいそう。観劇にモードを切り替えるにはやすむ時間が少なすぎて、繊細な印象を受け取る準備ができていなかったかもしれない。体力についてさらにいうと、字幕のスクリーンの座席からみた位置が悪くて、和訳を読むにはステージ左をみて、英訳を読むには右をみないといけなかった。場面によってふたつの訳の雄弁さが変わることがあるからつい両方を気にしてしまって、舞台からながく目をそらしてしまうこともあった。乱視のピント調整で目が疲れもした。さらには花粉症の疲労もあったかも。ちょっと悔いが残る。

オーケストラを聴くには体力が必要。おなじプログラムを連日みにいく熱心さをもったひとがいることをいくつかの劇評でみつけた。そこでぼくにみえなかった舞台をみたり、聞かなかった音を聞いたひとの意見をみた。

体力をやしなってよく生の音をきく、ということをもうすこし続けてみたいな。次に同じ演目をみるときには(機会はあるにちがいないから)いま聞こえなかった音が聞こえたらいい。