黒澤明の『生きものの記録』を観た。原水爆で人間がいまにも破壊されるかもしれないという被害妄想のとりこになった初老の男性、中島喜一(三船敏郎)が衝動にまかせてブラジル移住を計画し、頓挫するまでを描く。

狂気におちいっているのは異常な恐怖心をふくらませた老人であるのか、それとも原水爆のある世界をなんともおもわずに生活するその他の市民であるのか、そういう修辞疑問めいた命題が提出されている。つまり、強迫観念に取り憑かれた中島老人こそが正常であるのに、原水爆への恐怖を抑圧してかれを精神病院におくりこむ戦後社会はまちがっているという主張である。

中島老人は製鉄業で成功をおさめて、家族と従業員のほか、妾とその子を養育して、一族の大黒柱と自他ともに認める人格である。金と地位をもったこの老人が、エゴイズムに突き動かされて、こう主張する。みなを連れてブラジルに渡る! なにがなんでもブラジルに全員をつれていく! ブラジルの農園生活だけが放射能汚染からわれらを守ってくれる!

それで、狂った老人のエゴに振り回されることを是としない家族がこの家長に反旗をひるがえし、いざこざは家庭裁判所に持ち込まれる、というのが大筋である。

反核のメッセージは悪くないようにみえて、でもどうにも通俗の押し付けという印象があった。反核こそ通俗的というのではなくて、それをあらわすために制作者たちが用意した、中島喜一を家長とする家族共同体の枠組みが通俗的とみえる。そこには男性権力による支配の横暴が拭いがたく刻印されていて、いくら中島を核への恐怖を素朴にいだく純粋な老人と描こうとしたところで、金と地位で支配する男としての姿をもつ彼は、同情を誘うには粗野すぎる。

早い話が、そんなにブラジルに逃げたいのなら勝手にいけばよろしい。しかしそうせずに管を巻く様子をみるに、どうやら中島にとっては、家庭の法王としての権力を最大限に使って、家族の運命を不可逆に決定することのほうがはるかに重要な目的であるようだ。家族がいなければどこにも動けないくせに、自分が家族を動かしているという幻想に取り憑かれていることこそ、男の妄想である。

しかもこれは古い価値観がフィルムのなかにおもわず生き延びていることを発見して嫌悪感を抱かせるというのではなくて、東アジア圏の男性たちの無意識の支配欲をすべて体現するようだからたちが悪い。経済的成功によって尊敬をあつめ、ひとを支配して思いのままに操ることができれば、という彼らのグロテスクな欲望を中島は体現していて、そこに倫理をみいだすことはおよそできない。そうであるにもかかわらず、映画は彼を純粋なロマンチストとしてかたどろうとする。結果として、害をなす男性を美化して、まったく誤ったナイーブなメッセージを提出している。これはよくない成果のようだ。

核への恐怖は現在の課題として引き継ぐべき主題であるものの、家族の描きかたがヒューマニズムをおおいに欠いていて、ほんらいの主張を効果的につたえることにも失敗せざるをえない、もの悲しい作品である。

家長権による支配をグロテスクに誇張したアイロニカルな喜劇映画にみえた。というより、あまりに男性権威中心主義的で、時代遅れの喜劇映画として滑稽に眺めないかぎりはみるに耐えない映画であった。