年末に公開されていた、ヴィム・ヴェンダースの新しい映画を観にいった。

すごく、すごく、不愉快な違和感をずっと持ちながらみた。目を背けたいほどに腐敗しているとまではいかなかった。実際のところ、描かれているのはおおむね穏やかな日々にほかならないし、目に快い。しかしなにかを抑圧しようとする欲動がいつも発動しているようにみえて、それが主題に反して不穏な緊張感を持ち込んでいる。やわらかい糖衣につつまれていま目の前に提出されている映画が、本当に覆い隠しているものはなんだろう。穏やかな画面の印象とは対照的な、どろどろした隠れた動機はなんだろう(絶対にあるに違いない)。そのことをずっと気にしながら観ていた。

観終わってひととおり考えたあと、こう総括することにした。これは人種のない社会で誰からも責められずハッピーに暮らしたいという西ヨーロッパのエリート層の本音を(意図せずに)映し出した映画だとおもう。

日系の俳優とスタッフを集めてつくるはずの作品を、ひとり西欧人が監督している。その構造が、いろんなことを死ぬほどおぞましくしている。まずカメラは、トイレ掃除の労働を一生懸命こなして、おおむねいつもニコニコして生活する男性を映し出す。ここで映画が反復する日系人のイメージは、高度成長を指くわえてみていた昔の西欧人が組み立てたステレオタイプそのままである。勤勉は美徳であるけれども、スクリーンに映して観客にのぞき見させるための商品ではないはず。誰かに褒められるためにやるべきことではないし、まして怠惰なわれわれ観客に心底とらえることのできる機微がそこにあるとはおもわない。

音楽の使いかたも、悪い意味で容赦がない。ひとつひとつの音楽がおおきいパワーを備えているのとは別に、ミックスのしかたがあんまりにもグロテスクを露呈している。監督の好みにそって、サウンドトラックはアメリカン・ミュージックが占めているわけだけれど、白人の音楽と黒人の音楽を無邪気に並置して、まるで人種的葛藤などどこにも存在しないかのように見せかけるのは、無粋である。映画の末尾でニーナ・シモンを長く流しながら、カメラも長いショットを映すシーンがある。寡黙な男が目を赤くしながら笑顔を守るショットの背後に、アフリカン・アメリカンの女性の作品を使って、いったいなんの効果を導き出そうとしているのか。いっさい理解ができなかった。いっそぼくの側で理解を拒んでしまったともいえる。でもそれが、頭でよく考える前にくる身体と心の率直な反応だった。いずれにしても、そこでの音楽のスケールはあきらかに映画のスケールを凌駕していて、最後の演出は完全に失敗した。最後のピークが失敗したから、それだけで映画は挫折におおきくかたむいた印象を残した。

評判のいい映画であるという話を踏まえてみにいったあとで、評判がいいことに疑う余地はありません。だっていい気分になること以外なんにもいってないんだもん。いっぽうで、隠れた欲動を探る目でみると、こうなる。人種的葛藤のない世界に暮らしたいという西欧の欲望の引き受け先として東京に白羽の矢が立った。国際的な実績のある役所広司を筆頭に、ドメスティックな存在感のある俳優たちをパッケージして、ただし監督には実績ある西欧人をつけてイメージをまろやかにして、ヨーロッパのマーケットにとって飲み込みやすく消化しやすい作品にした。ヨーロッパで評判がよかったから、日本のマーケットに逆輸入した。そういうものをありがたがって拝領しようという気持ちは、ぼくにとって遠い。

白人がひとりも登場しないことがなによりも白人の存在感を感じさせる。白い美意識の背後には、「人種の話だけはしたくない」という形式で抑圧された底なしの人種主義が口をあけて、穏やかなパーフェクト・デイズの影にできた暗い不安を一手に引き受けて控えている。