新宿ピカデリーにオペラのプログラムを観に行った。

作曲はアンソニー・デイヴィス。初演は1985年。マルコムが斃れて20年後のことで、スパイク・リー監督の映画『マルコムX』よりもいっそう早い製作である。

硬質なパフォーマンスだった。音楽はジャズのエッセンスを中心にしながら、変拍子のループや意表を突くメロディに満ちていた。スティーブ・ライヒのような、ちいさな音形の反復によって展開をうながす技法もあったようだ。

一人二役のテノール(ビクター・ライアン・ロバートソン)の存在感が際立っていた。複雑なリズムの技巧的な旋律がおおいなか、高い音域の歌い方によって魅力をだしていた。華のあるパフォーマンスだった。マルコム(ウィル・リヴァーマン)は第一幕の終盤でようやく登場して、外に向かう怒りよりも内省的な態度をあらわしていた。

マルコムの生きた時代の風俗を活写するステージの中空を、不時着した宇宙船のような巨大なオブジェクトがおおっている。またコーラス隊は未来的な髪型と衣装をまとって SF 映画のような佇まいをしている。

幕間の出演者インタビュー中に、アフロ・フューチャリズムという言葉が出てきた。どういう意義のある批評用語なのかはよくわかっていないが、次のように噛み砕いた要約はじつに腑に落ちるところがあった。

未来の社会を想像する。その未来には自分は存在しない。未来に生きる自分の姿は想像することはできない。

理想の叶った未来はかならずやってくるのだけれど、自分はきっとそれより先に死んでしまうに違いない。

社会はすこしずつよくなっている。でもよくなった社会を見届けることをあきらめてもいる。楽観主義と閉塞感が混ざっている。

未来的な意匠を身にまとうことは、自分の居場所を未来につくることである。夢の未来に生きる自分自身を、自分の肉体に表現させる。そうすることによって、未来に自分の居場所を確保する。

未来に居場所があると感じられることは、未来を奪われているよりもずっとよい。