アッバス・キアロスタミの『桜桃の味』を観た。

年明けには閉店するともう決まってしまったらしい、実家の近所のゲオまで歩いていって借りてきた。隠れた宝石のような映画だった。

バディ(ホマユン・エルシャディ)は荒れ地に車を走らせる。レンジローバーを走らせて、仕事のパートナーを探す。助手席に代わる代わる男を乗せる。クルドの若い軍人。アフガンの見習い神学者。トルコの老いた剥製職人。

うわべの話を滞らせない社交性はある。仕事と金の話は得意だ。イラクとの戦争の思い出を話して、おまえの生活はどう変わったと尋ねるみたいに世間話もする。でも自分の悩みと身の上の話は決して漏らそうとしない。それこそが話したいことであるはずなのに。そして、話さないことについて励ましてもらうことはできない。

なにかが間違っていることに気づいて絶望しているようだ。しかしなにがおかしいのかいまいちわかっていないから、話せないし直しようもない。砂で汚れたレンジローバーを転がして、ちいさな街と乾いた荒れ地のあいだをぐるぐる行き来するだけで、どこにも向かうことができないでいる。

街で車を走らせると失業者が仕事を求めて寄ってくる。「仕事があるんだろう」「雇ってくれないか」しかし彼は雇わない。見定めているのだ。ようやく雇おうと決めた相手も信用しない。ひとを信じていないから法外な金を用意しているくせに、その金がひとを動かせるとも信じていないから、執拗に約束をせまって宣誓までさせようとする。どうせ信じないだろうに。

これはバーンアウトした男の話だとみえる。はじめはそんなことはおもわないで見過ごしていたのだけれど、観終わったあとの印象を反芻しているうちに、言葉で語られない喪失感があると信じるようになった。そしてその喪失感は、ぼくが体験したことのあるあれを反復するものだ。そこにぼくの直観は惹きつけられた。

目標を失ってなにもできなくなった男の話である。なにもできなくなっているのに、なにかをせずにはいられないという衝動もある。それは絶望的な矛盾と葛藤である。自分の操作できる最後のひとつのもの、すなわち肉体をぞんざいに扱うことに意識が向かって、彼は自殺を計画する。頭はしっかりしているから、目標と計画を立てて粛々と遂行しようとする。しかし…そんなことは馬鹿げている。

小話。身体中が痛む男が医者にかかった。「頭をさわっても痛いし、足をさわっても痛い。肩もおなかも、身体中がぜんぶ痛い。どうにかならないもんですかね?」医者が診断していう。「これは指が折れていますね。おかしいのは頭のほうみたいです。」悩みや苦しみへの処方箋を考えて自殺にいきつくというのは、どうもこれに似た話のようだ。

ブルドーザーが岩をごつごついわせながら運んで、山から投げ捨てると、土埃がわあっと空を白くしながら山肌を崩れ落ちていく。荒れて色のない山を色のないレンジローバーが走っていく。彼はブルドーザーの脇で車をとめて、いろんなかたちの砂と石と岩がふるいにかけられるのをじっとみる。砂埃のもやもやのなかに座りこんだ彼のまっしろい影がぼんやりうかびあがる。

「仕事があるんだろう」「雇ってくれないか」「何人でも出せるぞ」とものほしげなふうを顔にぶらさげてストリートにたむろしている男たちは雇わない。命を終わらせるためのこの仕事は、それよりも消極的で、陰に生きるひとびとにこそ依頼したい。もっとも、それは自分の思うままにコントロールできる相手だけを求めるということでもある。そして彼の手元にある道具は、金だ。

金はある。しかしそれは満足をもたらさなかった。しかも金をもったせいで、金を介在させずに考えることが難しくなっている。ひとに歩み寄れない。甘えることができない。

プラスチックを拾って売って暮らしている謙虚な男をみかけ、気にいり雇おうとするが、こういう魂はきまって儲け話には乗らない。彼自身もあるいは肉体労働するほうが性にあっていたのかもしれない。しかし金はもうあるわけで、目的なく労働しても仕方がない。どうして自分は目的を失ってこう不満足になってしまったのか。彼は燃え尽きたあとのカスのように虚ろに漂っている。

いよいよ協力してくれる共犯者をみつけて、自殺の予定地の下見から街に帰る車のなかで、バゲリ(アブドルホセイン・バゲリ)は遠回りをうながしてゆっくり話しかけた。バディはなにも話さずに、ただ耳をかたむけていた。バゲリはゆっくりひとりでずっと話していて、そのあいだ画面は荒れ地を車が走っていくのを映すだけだった。

バゲリもまた自殺志願者だったと話していた。夜明け前にロープを持ち出して庭に向かって、木に向かって投げた。一回、二回とロープは枝を逃して、しまいに彼は木にのぼってロープを結んだ。そのとき手にやわらかいなにかが触れた。よく熟れた桑の実だった。それをひとつたべた。甘かった。ふたつたべた。みっつたべた。やっぱり甘かった。持ち帰って、目を覚ました妻にも食べさせた。これはおいしいとふたりで喜んだ。

悩みがなくなったわけではないのだ。でも、悩みへの執着はなくなっていた。変わることができたのだ。桑の木に死を置き忘れて、実をもちかえった。

そのようなことが立ち直らせる。どのようなことか? なんでもいい。世界があたえてくれる美しいよろこびを、ただ受け取るだけのこと。

世界はただあたえられるものに満ちている。われわれはただ受け取ることが許されている。バーンアウトはそれを見失わせる。そしてこの世界との関係を回復しはじめるとき、バーンアウトもまた退きはじめている。