北野武の『首』を観た。

男の世界を描くやりかたを個性とする作家の手際よさがあった。極道の世界が男のもので、スポーツの世界が男のものであったのとおなじように、戦国は男の世界だった。そこではどうでもいいことが重要であり、重要なことはどうでもいい。

首とはべつにどうでもいいのだけれどなぜか男たちが必死になって追い求める奇妙なトークンの象徴である。

そして首をもとめる競争にかぎらず、大事なこともどうでもよさそうに描きたがる衝動はこの映画のいたるところにある。命が失われる瞬間はいつもあっけない。

織田信長(加瀬亮)の結末はあっさり描かれる。安国寺恵瓊(六平直政)は主君をバカにして切腹に押し出して、清水宗治(荒川良々)の切腹はユーモラスに映される。荒木村重(遠藤憲一)は逃亡者としての自分の境遇をかこつよりも、明智光秀(西島秀俊)が自分への恋心を失って信長になびいているのではないかと嫉妬するほうに熱心だ。

羽柴秀吉(ビートたけし)は演技を苦手そうにしている。光秀に丁寧語で語りかける様子はぎこちないし、本当はアドリブをしたいのにつとめてそれを抑えている印象がある。ぎこちないが、百姓上がりで武士や貴族の機微がわかりかねるのだから、所作がぎこちなくても構わないわけだ。画面を緻密さでがちがちにしてしまわずに、かえってゆるくあそびの余地をひきこむぎこちなさである。演技から重さをとりのぞく爽やかな手口である。

セリフを書くのが苦手な印象があって、アドリブでひねり出しているようだ。それもまた話から重さをとりのぞいている。

よくしゃべる映画である。しゃべりはじめるとノリがとまらなくなってしまうようにしてぺちゃくちゃしゃべらせながらユーモラスな余談が話をふくらませる。過剰さや饒舌さが前に出ているけども、決して深刻にはならない。

羽柴秀長(大森南朋)と黒田官兵衛(浅野忠信)が羽柴秀吉(ビートたけし)と三人でアドリブの会話劇をするシーンがあって、ぼくはそこがいちばんすきだとおもった。秀吉はその直前に「どうかわたしに天下をください!」と家康に依頼しにいって、その成り行き上、家康のまえで手をついて頭をさげ、あげく草履をとる真似までする羽目になったことで落ち着かなくて、秀長にやつあたりする。カメラは一台だけがあって上座の秀吉を正面からとらえて、その両脇には秀長と官兵衛が控えている。秀吉は、秀吉のというよりもビートたけしの癖の、あの照れ隠しをするようなユーモアをまじえて、「おい! いったいどうしてくれるんだ!」と口火を切る。

秀吉「お前が頭をさげろっていったんじゃないか!」
秀長「いや、それはあの成り行きではいたしかたなく…」
秀吉「お前、おれの頭をこう掴んで、地面にこう押し付けてくれやがって!」
秀長「(笑いながら)いやそんなことはしておりませんとも」
秀吉「いや! そうやられたよ。(官兵衛を向いて)なあ?」
官兵衛「はい、まさしく」
秀長「そんな、なんてことだ」
秀吉「(笑いそうになりながら)もういい! おまえもう切腹しろ」
秀長「(笑いながら)切腹でございますか! そんな…」
官兵衛「(なにか言おうとするような動きも見せながら子供をながめるようにやさしくふたりをみつめる)」

このように気楽なスケッチがいくつも折り重ねられて、首をめぐって語られるひとつの長編のようにみせかけながら、中身はいくつかの話題をまぜてこねてひとつにしたものとみえた。武士にあこがれる百姓の話、元忍者のおしゃべり芸人の話、信長の後継者あらそいの話、荒木村重の嫉妬心の話、羽柴秀吉の毛利攻めの話、光源坊の異形ぶりの話。

ストーリーとは一本道だといくらディテールを書き込んでもかえって浅く薄くなる。浅く薄い断片をたくさんあつめて並べていくと、観客が話の流れを自発的に補足して、なにか深淵な運動があらわれているように錯覚する。そもそもが虚構なのだから、錯覚もリアリズムもなくて、寄せ集めの断片でもかまわない。とはいえすっかり断片のまま糊づけされていないとバラバラになってしまうところ、一本筋を通す構成要素は必要で、それが織田信長の首を頂点にするヒエラルキーであるようだ。