黒澤明の『酔いどれ天使』を観た。

よどんだ水たまりがある。沼だ。腐敗した空気が底からぽこぽこ泡立っている。産業廃棄物が投げ込まれて、油が水面を汚している。明るい日に貧しい子どもたちが遊んでそれに近寄ると、真田(志村喬)は怒っていう。チフスになるぞ!

沼のほとりに闇市がある。文字面ほどに陰鬱な場所ではなくて、アメリカの風俗があちらこちらにみえて、とってつけたような明るさにせよ、うわべは明るいちいさな繁華街だ。その闇市の秩序をやくざが支えていて、松永(三船敏郎)はそこを縄張りにして威張って歩いている。

西部劇のようなお膳立てである。未開拓地に文化と資本が侵入して、秩序に隙間を生じさせたところに、ごろつきがはいりこんで息づきはじめて、警察権力の空白を埋める。画面づくりもアクションもどこか西部劇じみてみえる。松永が真田を連れていってウイスキーを飲ませる店は、音楽と踊りと酒があって開拓地のサルーンのよう。その酒の席で揉め事が持ちあがって、飲んだくれたほうが蹴り出されて、熱い土に尻もちをつかされるのも。オマージュというよりは紋切り型の表現であるようだ。監督はまだ技術を磨いていて、資金に制約があった。映画はまだ自立した芸術ジャンルとみなされていなかった。

真田は闇市のはずれに診療所をもつ。飲んだくれと罵られるのは、消毒アルコールのガラス瓶に熱い緑茶を急須から注いでそのまま飲んでいては、もっともなことである。酒への弱さに人間の弱さがちらつくが、実のところは情熱的でたくましい医者である。居丈高なチンピラとしてあらわれた松永に威圧されないで、かえって彼らやくざへの嫌悪感と軽蔑を堂々と語るし、不服従を制圧しようとする暴力には、割れやすいものから手当たり次第に投げまくって反抗する。

美代という女が真田の診療所ではたらいていて、元夫の岡田が出獄して四年ぶりに戻ってくることにおびえている。岡田は沼のほとりの闇市を締める無法者で、刃傷沙汰によって不在にしていた。あるとき遠くからギター演奏が聞こえて岡田の帰還は予感され、じわじわとせまり、いよいよ診療所に岡田が来訪する。ここでも真田は不服従の胆力をみせていう。お前のいたころの封建主義とは時世が変わったんだ、いまや男女同権だよ。お前が「おい」といって女が「はい」といって出てこなかったら、もう振られてんだよ。

松永ははじめ、ドアに手を挟んで釘が刺さって出血したといって真田の医院をおとずれる。「ふん、これが釘かね」と真田は手のひらから銃弾を摘出する。

結核の簡易検査をしたのはたわむれであった。かたや松永はおのれが結核であるはずないと筋肉を見せびらかして息巻く。かたや真田は迷惑なチンピラから医療費をぼれるなら要らない検査でもなんでもやって請求してやるといいながら聴診器をあてる。そのたわむれが、肺にあいた穴を発見する。

はじめは不遜な態度で否認して、やがてそのほうが風通しがよくていいやと粋がって、命なんて捨てたらと開き直る松永は、了見の狭さに自分で気づくことができていないなりに、不意に知る命のもろさに混乱していることは明らかだ。不摂生を断って養生しようと決意して、それで結核は治せるという信念を真田に教わったはずであるのに、最後にはやはり弱い。帰還した岡田に裏社会での存在感を削られる焦りがあって、酒に飲まれ、女に踊らされて、喀血する。女にも、親分にも、ヘコヘコさせてきた闇市のひとびとにも見限られて、絶望で顔を真っ白にして雑踏をとぼとぼ歩く松永は、ほおがこけて目は虚ろに落ちて、手はだらりと垂れて肩に力なく、メキシコのドクロ人形のように滑稽な悲しみをになっている。すべてを失ったら、あとは回復するだけであるはずなのだが、すべてと引き換えに命を守ることは口でいうほどに楽でない。腐敗した沼にもどってきて、ほとりにたたずむと、四方の塞がった狭い世界に居場所はなくて、しかも外の世界を知らないから、そこから足を洗う想像力が持てない。狭い世界のなかであたふたと動いて死んでいくだけの貧しい魂は、仁義を最後まで信じると言い聞かせて、そのせいで死んだ。あわただしく死んだから、残されたものが惨めとおもうほどに惨めとはおもわなかった。くたびれた洋服を白いペンキで汚しながら戦って、おろおろ這いつくばりながらまぶしい屋外に出て、洗濯物が揺れる影でおひさまに顔を向けて、白く絶命した。

松永が放蕩する夜のシークエンスで、笠置シヅ子が「ジャングル・ブギー」を歌うところがある。これがひどく猥雑に聞こえて感心する。やくざが好んでそのうえで踊るわけだから、猥雑な音楽を引用することはまっとうである。もちろん音楽に上品も猥雑もないと信じるところからの感想であるが、現代からみて性的に露骨な詞を載せているわけでもないのにみだらに聞こえるのはどうしてだろうとおもうに、これは都会の風俗の特殊性を自覚ながらジャングルに露悪的に投影していることが悪い。都会で野蛮な恋をすることは構わないが、その野蛮の根源をジャングルに担わせて、しかもジャングルの恋のダンスを支えるためにジャズのリズムを盗んで動員しているから、結果としてジャズを低俗や未開に紐付ける直観を重ね塗りしているのも悪い。悪いのだけれど、こんなに悪い音楽を流してやくざに踊らせるという表現のしかたはおもしろい。