ドストエフスキーの『地下室の手記』を読んだ。

手記といっていて、たしかにこれは地下室暮らしの男が誰にみせるためでもなくひとりで書いたものだとみずから説明するのだけれども、第一部にある文体は手記というほどに格好つけたものではない。むしろ気まぐれの思いつきが口からでまかせにほとばしるのにまかせて語り、それを録音したものをあとから聞いて書き起こしたのではないかとおもわせるほど、言いよどみや意見の変更がひんぱんにあらわれて、しかし破天荒で勢いある演説口調が崩壊寸前のつなぎめを覆っている。

手記は二部構成になっている。第二部は長い回想であるが、語り手が途中で口を出すことはしないし、これからやってくる状況を妙なやりかたで先触れしたりもしない。時系列にそって、自分と出会ったひとびととの交流を駆け足せずに描いて、第一部であふれだしていた、尊厳と自己卑下の拮抗した自画像を披瀝するための饒舌はない。自尊心、羞恥心や侮辱にまつわる逸話を語った第二部は、緊張感とユーモアの独特の調合によってどっしりした読み味を持っているが、それはあくまで第一部の黒光りによってはじめて重さをもつものとおもう。

第一部の書きっぷりはそれだけいちじるしい。たったひとりの頭のなかで展開する論理の星座がひとつづきの文章に直列化される様子は、超越的な力が芯となってこれを支えているとみたてずにはいられない。ひとりでしゃべり続けることは狂気の全面化であるとして、ひとりでしゃべり続けるように書かれた手記は、かろうじて正気の淵にある姿を想起させる。書く男は、言葉がたえず口をついて出るのをそのまま文字に置き換えるようにして、編集の跡のみえない生の言葉の圧力を文体に担わせている。論理の展開は、うわごとによってのみ起こる。「しかし、もうたくさんだ…」というように、不意の諦めがそのまま書き留められて、それを契機にある話題はとぎれ、次の話題が始まる。そうしてドライブする話題は飛び飛びになっているはずなのだが、支離滅裂の印象は残さない。「諸君」と名指される二人称の聞き手が独白の相手役として空白を埋める一貫した存在感をもっていることが有効なのだろうか?

話すままに書くというのでないが、書かれた言葉は話された呼吸をともなって、音楽的な推進力のある前半部である。この過剰な独白は作家の特徴の原型といえるかもしれない。『地下室の手記』は中編で視点人物もひとりに限定されているから、より大きく複雑な作品群に比べて、独白という形式の技術的達成をあじわうにはうってつけの文章にちがいない。