一速でゆっくり発進して、壁に埋まったタイヤをクッションにして停車させて、ニュートラルで後退する。半クラッチをゆるやかに使ってそれを繰り返す練習をするところから、二輪教習ははじまりました。よろよろ動いて、エンストさせずに停車させることはなんとかはじめからできています。これを間違わないように繰り返して、「いわれたことはまあうまくやれているみたいだな」と安心していました。
「力はいりすぎだよ!」教官はにこにこしながら肩を叩いてよこしました。「あれっ! そうですか…。」しかしそういわれてみると肘はつっぱっていて、肩はかたまっていて、抜くだけの力は十分に上体をこわばらせていました。肩まででなく首よりうえまで緊張がにじみだして、悲壮感にみちみちた表情はまるでこれから謝罪会見に出るような…とまで戯画風にみえていなければいいなとおもいながら(でももしその証拠写真をみせられたら恥ずかしさよりもおもしろさが勝って笑ってしまう気もします)、余計な力を抜こうと意識して、どっかりと座ってやってみることにしました。
この肩から余計な力を抜く、抜く、抜くぞ! と強く意識するほどに余計な力がこもりかねないから、つとめて力を抜くのは簡潔なようで掴みづらいですね。自然とほぐれるのを待つには時間がすくなく、しかしほぐれないものをほぐすために刺激を身体にあたえてゆるませようとすると、刺激を受けた身体はかえって固まりかねないようです。
目をつむって深呼吸する。呼吸だけに意識を集中して、緊張をいったん頭から追い出す。呼吸は冷却装置です。排気のにおいを感じて、外気の冷たさを飲み込んで、緊張でバランスを歪めた身体の感覚をゼロに戻す。または肘を肩から揺らして、こわばりをとる。ハンドルを肩からの力でゆらゆらと動かしてみて、自分の腕が車体につながっていることをたしかめる儀式をする。
そうして問題からいちど目をそらすという逆説をとおりぬけた目に、問題はあたらしい見えかたをするようです。緊張はいちど断絶して、ゼロからやり直すことができる。これはただ「深呼吸をすると緊張がほぐれる」という命題よりおおきいことをなにひとつ言っていないながら、あたらしい発見のような手触りでおとずれて、印象にのこったものです。
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アクセルをふかしてエンジンをブオオといわせるのがちょっと得意でないです。うるささに気が引けます。うるさいのはいっさい嫌だというのでもなくて、ひとが気持ちよくブオオといって走らせているのはみているこちらもいい気持ちになるのだけれど、自分が騒音をつくってひとに聞かせるということに引け目があります。騒音を出すことがマナーであるはずはないけれど、教習所でメリハリのある運転技術を学ぶということは、ときにエンジンの回転音を高らかに響かせることを必要とするようです。
ちいさな音だけをつくってとろとろと発進することもできます。しかし加速が弱いことはまわりからみる限り、かえってもどかしいようにみえます。もうすこし力強く発進しましょうねえ、とぼくはいつも改善をリクエストされて、力強い音を出して力強く駆け出すことは必要な技術であるようだとわかってきたところです。ブオオを嫌がるのはいいとしても、ブオオを拒絶するのはおもいきりの悪さです。
バイクに乗るということは、ブオオとやれる性格に自分を改造することです。自分の存在をアピールして、「おれはここにいるぞ! 聞いとけ!」という態度を出すのは、わくわくする気もします。マナーが深夜の住宅街でうるさくしないよう命令することを忘れないまま、道路とはそもそもうるさいものだと認めることは、両立させられます。
自分がおおきな音を出すことを考えるとヒエッとして静かにしたくなってしまういっぽうで、ひとが音を出しているところをみると、おなじ音でもそんなにうるさくてしかたないわけでもないような気がします。自分の音だけを騒音と錯覚して聞いてしまうことは、自分で自分の音がよく聞こえるからというだけにほかなりません。それは同時に、自分の音だけを聞いて、まわりの音とのブレンドを聞けていないということでもあります。
環境の音を意識して、まわりの音を聞いてごらん。そう自分に話しかけてみます。いろんな音がそこにはあります。よく聞くとぎょっとするものも聞こえます。しかし人間の耳は聞きたくないものをシャットアウトして聞く特性を持っているものです。すこしくらいおおきい音が聞こえても、ひとはいちいち不快になることができないし、不快になっても音の源を叩くこともできなかったりするものです。
土曜日の夜。新宿駅の中央線ホームからひとがあふれそうになっています。客の怒声を場内アナウンスの怒声がかき消します。そのアナウンスの怒声をホームに侵入してきた電車の強烈なクラクションがこんどはかき消します。「やかましいわ!」と叫ぶ男の声があったとしても、それはただちに人混みに飲み込まれて消えていきます。そうやって、騒音を騒音がかき消す大騒動に都心のひとびとは馴致されています。
決して騒音を立てないようにと神経質になるくらいなら、すこしくらいの騒音がなんだろうと開き直って自信をもち、力強く運転するほうがよほど安全です。エンジンがうるさすぎるときは、持続する騒音に自分で気づくことができるし、排気の臭いもシグナルになってみずから控えられるから大丈夫。
存在感を消して静かにしていたいことはあります。静かであることは豊かなことであります。しかしわれわれは完全に沈黙することはできないと現代音楽は教えます。
存在するとは自分の音を出すことです。生きるとはまわりの音に自分の音を混ぜることです。
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転ぶことがおっかなくて、おそるおそるカーブします。その「おそるおそる」を取り除くこともまた小目標のひとつです。
自分がバランスを崩すとバイクが倒れてしまう。だからバランスを崩さないことを第一に考える。このようなやりかたには、かえってバランスを失わせる逆説があります。自分とバイクのあいだに良好な関係が築ければ、おそれることはないようです。おそれを感じるのは、コントロールできないことの不安と自信のなさのあらわれなのでしょう。
自転車に乗るときの感覚を引き継ぐことによって、感覚を狂わせているところがおおいにあります。自転車が自転車乗りの体重よりも軽いのとは違って、バイクはバイク乗りの体重よりも重いです。バイクは運転手が上体をすこし傾けてもバランスを持ちこたえて倒れません。停止したバイクにスタンドを立てたまままたがって、両足を地面から離して、ためしに身体を倒してみると、あんがい持ちこたえてくれます。スタンドごとぶっ倒れることにはなりません。自転車で同じことはできないでしょう。
その特殊な平衡感覚はつかむのがむずかしいです。いや、異なる平衡感覚があると理解はできていても、それに身を委ねることにおびえているようなのです。
もっとも、ただおびえるだけではありません。この一週間で七時間の講習を受けました。一週間前はまだハンドルを握ったこともありませんでした。それがいまや、すこしだけバイクと自分のあいだに対話の糸口ができはじめています。いま何速にはいっているのかを音で聞き分けて、必要なギアにただちに変速できます。チェンジギアの操作もなめらかに育ってきて、二速と三速のあいだをすいすい行き来できます。身体に記憶のプールができつつあります。
考えるよりも先に身体が動くようにしてなんぼのようです。頭で操作手順を考えると、どうにも間に合いません。考えるやいなやばたついて、「ギアを下げなきゃ。よしギアを下げたいから、左足で操作するんだけど、下げるときは下から上に蹴り上げる、んじゃなくてあれっ踏むんだったからええと」などと考えてしまうと、たった一秒だけでも、バイクは推進して新しく異なる状況に突入しています。遅すぎるのです。現在の状態に反応して、即座にレスポンスできる精度と速度を身体におぼえさせないといけません。そしてそれは動作を繰り返し練習するうちにのみ身につくようです。特訓はメカニカルです。
近くをみていると止まってしまうが、遠くをみるとたどりつけるということがあります。たとえばカーブ。眼の前の曲線をみていると身体がばたついてあわただしくなりますが、二歩先のルートを眺めながら運転すると、目の前の曲線はおのずと曲がることができます。あるいはスラロームで、ひとつひとつの隘路をみていると大回りになって破綻するのが、出口を一点にみつめて走ると、頭の位置が安定してぶれずに走行できます。あるいは平均台。目線を下に置くよりも遠くの地平線をみるほうがまっすぐはしれます。
ひとつひとつの点を通過していけばやがて線がひけるということは自明ではありません。線は線としてしか知覚することができなくて、点ごとにクリアしていくことはできないようなのです。線を点に分解してミクロからマクロにいたることはできない。いや、できるにはできるのかもしれないが、分解できる単位のちいささには限度があって、それはおもったよりもおおきいということでしょう。ミクロな技術を考えるよりも、大きな道のりを大雑把に想像すること。細分化しすぎると破綻します。