11月の最後の日は、トラブルにまみれながら終わらせた夏の仕事への振込の期日だった。その前の日に口座をみたときにはまだ振込がなかった。健全な関係が築けていたならトラブルが重なることもなかったはずで、未払いが最後のトラブルとして追加されることを考えた。考えたけれど、まだ破られていない約束が破られたと想像して悲しくなるのはやめようとすぐに打ち消した。昼下がりに振込が到着しているのをみて、ぼくは深く動揺した。
いったいどんな顔でそれを受け取っていいかわからなかった。トラブルの渦中で急ごしらえした契約にもとづいて支払いを取り決めた報酬を受け取ることに気のとがめはないはず。しかしトラブルから三ヶ月が経って、ショックから立ち直るためのやすみを過ごしているところへやってきた過去からの報酬は、消極的な思い出もいっしょに運んできた。ぼくはそれを受け取るに値するかと考えた。かといって、それに値しないから返上するということは考えなかった。悩みはしたけれど、なにに悩んだのかは不確かで、悩んだといえるのかもあやしい。
いっそ振り込まれていなかったならよかったのに、とも考えた。もし振り込まれなかったなら、相手が約束を保護にしたと一方的になじる権利があたえられるとでもおもったか、あるいは二度と関わりを持たないことができればと願う思いのあらわれであったか。しかし、未払いは明らかにもうひとつのトラブルを作って、そこから抜け出すためにもがいた泥沼にもういちどぼくをよびもどすことになっただろう。
すなわち受け取ることを望むようで望まないようなあいまいな情緒であった。どちらにしても心はざわめく。そうであれば黙ってやりすごして気に余裕のあるときに考えればいいものを、ぼくはわざわざ口座にアクセスして残高を検分した。結果として振込があったことを確認するのだが、そうしてぼくは動揺した。どうしてぼくはみずからおもむいて動揺するような真似をしたんだろうか。まるで動揺があたえられることを望んでいたかのような行動であったし、動揺はたしかにあたえられた。動揺を予測してやわらげるというのであればまだしも、予測したとおりに動揺するというのはまるで「きょうは動揺するぞ」という欲望を満たすための予定調和のようだ。それでいてぼくに動揺する自分を観察する余裕はなく、ただ素朴な動揺を味わっていた。
ただ受け取るということができればいいのに、ただ受け取る代わりに悩みはじめて、しかもどこにもいたらない。どうもこれは悩みを望んで悩んでいるようにみえる。怖いものみたさに怖いものをみて怖がるというのとおなじように、悩みたいから悩んでいるというよう。悩みを娯楽のようにしている。悩みなくただ平穏にすごしたいと言ってみたりもして、それに嘘があるわけではないのだけれど、ほんとうは悩みを望む自己陶酔があるようだ。無意味といってしまえばそれまでなのだけれど、それですべてをときほぐすこともどうやらできないようだから、もうすこし素描を重ねてみよう。
悩みがある。なにかとなにかがせめぎあっている。なにがせめぎあっているのかはうまく言葉にできない。どれかひとつを選ぶことはのこりを放りなげることに違いない。どれかひとつを選んで動きつづけることは苦しさをあとに残すようにみえる。
そういう悩みがある。急いで整理することはできない。ひとまず忘れることもやさしくない。あらがってもどうにもならない。うまくひとに話すことができない。自分のなかにだけあるものだから。なんとなく筋がとおった説明を発見できることはある。そんな説明はしかしどことなく嘘っぽく、興ざめにみえるものである。自分を幻惑にかけることはむずかしい。ぼくはこれでお手上げになってしまう。
若さが解決してくれることもあった。悩むのは苦しいから、思い切りのよさで突破をはかった。じっくり考えるよりもいきおいよく動くほうがものごとは簡単になるようにおもえた。いろんなものがみえてしまう神経質さを捨てて大雑把に世の中をみて、たったひとつの真実のためにはたらきかける。そういうやりかたを機能させられたことがあった。それがぼくにとっての20代だったか。そうはいっても、若いなりの悩みはあった。このままでいいだろうか。なにか間違っているんじゃないだろうか。
その悩みの波がおしよせるうちのひとつに飛び乗るようにして、ぼくは会社を辞めた。それで会社をあたらしく作ろうという知人のプロジェクトに手を出して、気づいたらトラブルの真ん中に立ってしまっていた。威勢のよさだけですべてうまくいくようなことはなかった。あるいは、すべてうまくいくとまで信じられていないものに向かって、自分を奮い立たせるためにではなく幻惑するために威勢をもちだしてしまった。いきおいのよさで通そうとしたものは、いきおいその場しのぎにしかならなかった。
生きることとは、悩みから逃れたとおもった矢先にまた悩みがあらわれることの繰り返しのよう。安心できる日などやってこない。おや、ずいぶん悲しげな断定になってしまったものだ。でもぼくが認めたかったのはこんな答えじゃない。もっと積極的な意味をつけて前に動きたいんだ。
悩み、悩みといってきた。それは苦しく、そこから逃げ出そうとして、逃げ出すことができてもやがてまたそのなかにある自分を発見するもの。これは悩みについての悩みである。このように再帰する悩みのことを、『暇と退屈の倫理学』で国分先生は「退屈」と呼んでいた。「退屈」を「悩み」と置き換えながら読んでみるといい。
人間らしい生活とは、そのなかで退屈を時折感じつつも、物を享受し、楽しんでいる、そういった生活である。 (中略) ひとは決断して奴隷状態に陥るなら、思考を強制するものを受け取れない。しかし、退屈を時折感じつつも、物を享受する生活のなかでは、そうしたものを受け取る余裕をもつ。 (p. 406)
「退屈」も「悩み」も、苦しみをもたらすノイズではなくて、余裕のあらわれだと積極的に定義しなおして、悪い意味はそぎおとしてしまおう。退屈は毒とか悩みは苦しみだと言い切るのはたやすい。悩みをもたないカンペキに健全な精神から出発して考えて、それと対比して悩みに汚された自分を考えることに、自己陶酔以外のなんの意味があるだろう? また、くよくよ考えずにはいられないときに、考えることを止めてしまうのはたやすい。考える時間にこだわりを磨かせて悔いの残らないようにすること、これは容易ではない。簡単でないことが常にすぐれるとはせずとも、過ぎたことを検討する余裕ももてないようでは、先はおもいやられる。
悩みとは、不快のことである。不快は内からこみあげる感情であるが、それは外界からやってきて身体のなかに沈みこんだ種が育ったものである。不快をとりのぞこうとしてひとは悩み、根を張った草を根絶することはたやすくない。
不快な映画をぼくは想像する。あらゆる点で不快であることは技術のたまものであり、愉快に属する。部分的な不快こそ、悩みをもたらす欠点である。ひとりの女性の描きかたに敬意がみられない。ひとつのシーンでリアリズムの構築に失敗している。シナリオの冒頭と結末のあいだに決定的な欠陥があってナラティブが崩壊している。このような理由のうち、ひとつがあれば「おや」とおもう。ふたつ以上になると不快となる。どうして自分は不快におもったか? そう検討して不快をとりのぞこうとする。拒絶して受け入れないことも、和解して受け入れることも、よく考えてそうするかぎりにおいて解決となる。
もっとも、悩みとは解決しないまま忘れるものも含む。どうせ忘れる悩みなら最初から悩まなくてもよかったと実用的に考える必要はないだろう。悩むことは余裕のあることのあらわれであり、悩む余裕のあることまで否定することはあるまい。
余裕があるから悩む。しかしそれを受けて、悩まないために余裕を捨てようと発想することは、間違っている。常に極限状態にあって悩みをもたないということは、理想とするにはあまりにも環境への隷属に近づきすぎている。
余裕を享受すること。余裕を恥じないこと。悩みよく考えること。
このようにして、ぼくははじめの動揺を解決できたと祈る。