國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を読んだ。
なんとなくつまらない。やりがいをかんじられない。もっとなにかに打ち込みたい。日々がより充実するように仕向けたい。そういう所在なさのことをあつかって、この本はただちにぼくの満たされなさを直撃した。現実の問題を解決することを試みる文章だという直感にうながされて、駆け足ぎみに通読した。ぼくは退屈なのであった。
ある仕事があって、ぼくはそれをどうやらひとよりうまくできるらしい。努力することもどうやら苦としないようだ。人並みよりすぐれた能力があるのだから、人並みのところでくすぶっていてはいけない。もっとスケールのおおきい探検をして、自分の手でなにかをつかんでみたい。そんな尊大な感情に駆り立てられていた。快適な環境を捨てたとしても、新しい信念に身を捧げられれば幸せであるはずと信じた。しかし、そうしてたどり着いたさきにあるものは、変わりばえのしないあの所在なさであった。その浅ましさにくじかれて、ぼくはふたたび退屈な快適さのなかに戻ってきた。
この本で退屈は三つの形式として語られる。そのことをぼくは実感をもって把握することができる気がした。退屈を紛らすために習慣を作り上げるが、その習慣によって退屈する状況としての、第一形式。退屈さを紛らわすために気晴らしをはじめるが、その気晴らしそのものに退屈を感じはじめるものが、第二形式。そして退屈から自由になろうとして、意志の力によって行動を開始する第三形式は、おのずと習慣への埋没をふたたびうながし、最後には第一形式に帰着する。ここで、退屈とはそれに気づいてしまうや否や、もはやどうあがいても逃れられないものとして描かれる。退屈していたぼくにとって、それはよくわかる。三つの形式を行き来して抜け出せない苦しみ、それは慣れ親しんだ観念として受け取ることのできるものだ。
退屈の第二形式のなかに長くいることは、ぼくを浮足立たせていた。そこには退屈と並んで快適さがあったにもかかわらず、それこそがひとを堕落させるぬるま湯であるのだと敵視して、その豊かさを放棄することを自分に課した。献身することのできる対象をみつけたと信じて、あわただしく環境を移動した。その心の動きは、大義のために命を捧げて後悔しないことを理想化する、原理主義の危険な規則に支配されていた。自分を見失って、見出したはずの環境への適応に失敗することは、必然であったといえる。
この本は、退屈することの苦しさを認める。それでいて、退屈でいることがなんらかの失敗を示唆するのではないかという疑いを退けて、気晴らしこそおおむね安定をもたらす行為であると肯定する。それは、みずからを強制してなんらかの信義に奉仕させるよりもすぐれた実践であるという。退屈しのぎの気晴らしのなかに楽しみを発見するのを待つこと。自分ひとりの世界を揺るがす力をもった存在がおとずれるのを待ち構えること。たとえば、劇場や美術館をおとずれて、自分の身体で別の世界を触れること。
仕事を止めて休養の時間を過ごしているぼくをなだめて、この本はあせることのないように引き止めてくれていると感じた。退屈を感じるのは信念を欠いているからだ、と合点する傾向がぼくにはあった。実際には、それは欠落ではなくて、普遍の側にあるようだ。
退屈を過ごすやりかたを描写するにあたって、マルクスの引用がぼくにはうってつけと感じた。マルクスは労働の廃止を主張せず、労働の再定義も主張せず、労働時間の短縮を訴えた。そして生まれる余暇を過ごすヒントとして、このような文章を残していると国分先生は紹介する
きょうはこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかも、けっして漁師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである
これは理想を語るものであるが、実現可能な理想でもあるようだ。趣味を趣味にとどめて、職業からはつとめて遠ざけようとしている。アイデンティティを職業から構築しようとしないことの豊かさ。多様なたのしみをもつことの豊かさを語っている。「プロであるからには仕事を考えない時間はひとときもない」のようにいって職業上の利益を守ろうとする者とは距離をおいて、いくつもの職業をそれぞれ気晴らしのようにして過ごしたいものだ。
若い人たちがビジネスマンを演じようと夢中になるのは、退屈に押しつぶされないように、自分のアイデンティティをつとめて仕事とひとつにしようとする努力のあらわれといっていいだろうか。起業を理想化したり、起業家を偶像化するのも、忙しさ以外になにもない貧しさからの逃避だろうか。もっとも、これはかつてのぼく自身に向けた当てこすりでもある。映画を、小説を、音楽をたのしむことは幸せであるが、いまぼくがそれらに気晴らしをたのむとき、ある感情がきまって心を横切る。このたのしみを我慢することと引き換えになにかを得ようとしたが、得られたものは悲しみだけであった、と。メランコリックになっていることは疑いなく、その悲しさを忘れるまでのあいだは気晴らしに明け暮れることにするのがよいようだ。