オルハン・パムクの『わたしの名は紅』を読んだ。

レパントの海戦に敗れたあとのオスマン帝国。細密画師たちは、ヴェネツィアからもたらされた西洋画の技法との接近に、葛藤する。それに接近して肖像画を描くことは、偶像を描いて信仰を曇らせることであるか。凡庸な市民や雑種犬さえ主題にする西洋の潮流は、アラーの栄光を描くほまれを曲げてまで従う価値のあるものか。絵画の技術的欠点のことを個性と言い換えて名声をあつめることは、欠点ひとつなく描いて伝統を守ることよりも栄誉あることか。目に見えるものを見ることは、暗闇のなかで見るよりも明らかであるといえるか。アラーはどのように見たか。アラーはなにを見せなかったか。

断章ごとにひとりの視点人物を設定して、彼らに語らせる形式がおもしろい。主要な関係者がものがたるのみならず、殺された男が屍のまま無念を語ったり、いっぽんの木の絵やいちまいの金貨が尊厳を述べる。げに、表題の『わたしの名は紅』は、紅色そのものが自分語りをする断章のことをいっている。おのおのがみたもの、口にしたこと、口にしなかったことのべつまくなしに語る。語る相手は読者である。二人称でこちらに呼びかけることがしばしば起こる。そして、読者に嘘を話すことはないようだ。妙技といえよう。その場かぎりの戯れというのでなく、長い小説の全体にそのルールを課して、形式として一貫させていることにすごみがある。ひとつの声に依拠しないで、いくつもの視点を張り巡らせながら歴史を語ることが、効果的な技術であるとみえた。

たったひとつの主題はここにない。いくつもの葛藤をよりあわせるようにして、ひとつのおおきな小説の世界がある。冒涜的な絵画を世に生み出さないための殺人がイスタンブルに起こり、その下手人を細密画を手がかりに特定しようとする筋書きがひとつ通っている。小説をおおきくしているのは、その周囲にひろがる挿話と細部の充実である。イスラーム世界の伝統があること。それにくわえて、ペルシアの詩と絵画の豊かな伝統があること。オスマン帝国はそれを継承して繁栄した。そしてその繁栄には陰りがみえはじめている…。

豊かな時代を謳歌したオスマン帝国が没落したことをわれわれは知っている。近代トルコは、西洋化の代償にイスラームの伝統をおおかれすくなかれ放棄したが、欧州連合への加盟はいまだ認められず葛藤している。閉塞感があるようにおもう。それはぼくの暮らす社会の閉塞感につながっている。すなわち西洋化しようと努力する社会であり、はじめから西洋でないことを決定的な壁として所有する社会であること。しかし、そのことをいまさらぶつくさいうことはすまい。それよりも、滅んだ帝国がかもした葛藤をその地の言葉で描いた小説が、なにやら普遍的な威厳をそなえた作品に結実していることこそが思いがけない幸福である。西洋をめざすことが劣等感に駆り立てられた果てしない徒労と、生まれ持ってしまった言葉と文化はなにやら貧弱な武器としかみえないときがあるのだけれども、それらが書きとる想像力のたまものが十分に強靭たることを示してくれる名作とこの小説をぼくは呼ぶ。

この作家は、何年も前に見かけたドキュメンタリー番組が彼をあつかっているのをみつけて、いずれみようと長く記憶しておいたものを先だって視聴したことでいよいよ興味を増やして、読むこととした: 東と西のはざまで書く~ノーベル賞作家オルハン・パムク 思索の旅~ - YouTube