新文芸坐で『アラビアのロレンス』を観た。

馬の群れが荒野を埋めるさまを見下ろす画面がいい。近代の騎兵隊というほどに秩序を強制されていない騎馬の軍団が、荒野をまっすぐに駆けてアカバ港に突撃する。何百もの馬がまっすぐに疾走するさまは、爽やかである。千個のひづめが乾いた土を叩く音が、超越的な打楽器のように鳴って、観客の腹のなかでこだまする。つくりものであるはずの映画に、異様な説得力がそなわっている。それこそが映画の魔術的力とおもわされる。

蜃気楼をじっくりと眺めさせる時間がいい。夢とも現実ともつかない影。なにかがこちらにせまってきているかもしれない、しかしそれは幻影かもしれない。そういう緊張感を、音楽や演技によってではなく、ゆっくりと流れる時間によって表現する。そしていよいよあらわれる人影が、あたらしいドラマを運んでくる。

砂漠に吹く風の美しさをとらえていることがいい。神のみわざが自然の美しさとしてあらわれ、フィルムはそれを焼き付けている。数学的な美しさをそこにみて、あるがままのそれを受け入れる。計算によって再現することは、現代の技術にとって可能であるに違いない。しかし自然の美しさは、それを模倣することは神への冒涜でないかと戸惑わせるほどに、荘厳である。

オーケストラの聴かせかたがいい。劇場のあかりが落ちて、スクリーンが青白く光りはじめる。そこから序曲が流れる。映像を伴奏するのではない、オーケストラだけの時間があたえられる。複数のリズムとモードによって、来るべき映画が予告される。せかせかと本題にはいろうとしないおおらかさもまた穏やかである。

いっこの人間として生きて、信念をたもちたい。その素朴な精神は、集団の制度と政治からどうしようもなくはみ出ていて、真っ向からの抵抗はしていないのに、居場所はなくいつも浮ついている。

詩と哲学を愛して、砂漠の言葉を学んだロレンスは、小さな人間として仕事をはじめる。イギリス軍のなかにあっては変わり者とみなされている。アラブの反乱軍のなかにあってほまれを受ける。誇りをみにつける。しかし肌のどうしようもない白さに、葛藤はふたたび芽生える。わたしは英雄ではない。わたしは普通の人間で、ちいさい。

普通の人間にもどろう。英雄であることは放棄しよう。しかしそうして手にはいるものは、どうしようもない後悔だけだった。英雄であることはどうしても取り消すことができない。素朴な英雄を頂点にして、あたらしい集団ができあがる。そして自壊する。

豊かだったはずの砂漠が、枯れた砂漠にみえはじめる。そのような砂漠からは、あきらめて去ることしかできない。