マーティン・スコセッシの新作を新宿で観た。
ロサンゼルスで、大型のビルボード広告をみたのだった。路線バスの車体にも広告が出ていたとおもう。ディカプリオとデ・ニーロの存在感が強調されていた。映画であるかドラマであるかもたいして知らずに通りすぎていたものが、日本の劇場でもかかっていることをあとから知った。スコセッシの新作であることは、さらにあとから知った。
バタついた映画であった。おおきな陰謀に連なるひとつひとつの悪行の逸話は、正気と狂気がいちいち入り乱れて、おもしろい。世俗の争いを無感動に映して、悪のちっぽけさがあらわれている。弱く、一貫性のない男たちの愚かさを描いて、むやみに理想化しない。そのようにバタついた精神の群像を描くために、映画そのものがバタつくことは、自然である。
4年前の大作『アイリッシュマン』を『グッドフェローズ』の変奏曲として観ずにはいられなかったことと同じように、この『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』もまた、いくつかの個性的なパラメータの調合によってできあがる、ひとつの様式の実現として目に映ることは否めない。
様式美があるということは、それゆえにおもしろみがないということもできるし、それゆえに好ましいということもできる。ぼくにとっての受けとめは…おもしろみがないというほうにやや傾いている。
晩年の芸術家が、自己模倣を選ぶことは不思議でない。そうしない映画をつくる活力はもはや残ってさえいないだろう。老作家がこのような映画をつくることをみなが望んで、望むものができあがった。作家自身にどれくらいの決定権があるのかさえ定かでない。それにみなが満足するのであれば文句はないが、ぼくは好まなかった。
ぼくがいま求める映画ではなかったようだ。ヘイル伯父が「一族」「家族」という言葉を盾にして犯罪を正当化するちっぽけな悪のさまをみた。そのような悪は、あらゆるちいさな形式でこの世に偏在すると感じた。しかしこの映画はそれを例外的な狂気として処理しているようにおもった。超大型の予算が、具体的な主張を許さなかったのかもしれない。
なんとなく本物らしくない雰囲気は、画面のつくりかたにもあった。油田と牧場をそれぞれ映す、ふたつの引きのショットがその印象をぼくのなかにつくった。アメリカ西部の大草原が果てしなく広がるさまを、上空から広々と眺めるはずのそれらのショットは、現実味のない作り物にみえた。あきらかに合成映像であるというほどに出来の悪いものだと言いたいのではない。ただ興奮しないのである。
本物らしさというときに連想するのは『アラモ』で牛の群れが暴走するシーンとか『ベン・ハー』の戦車競走のシーンがそうである。「この映像を実現するためにどれだけの努力が注ぎ込まれただろう」とドキドキしながら想像させられる映画をみたい。しかしここにあるのはそれではなかった。「スケールを大きくみせようとするだけのありふれた映像だな」と失望してしまっている。そうやって夢のないみかたをして、映画の喜びをみずから殺してしまう自分にもまた失望している。
ファーストデイの割引で、早朝の上映におとずれた。200分の大作である。これを観るだけで一日分の体力を使い果たしたという感じがした。映画にそれだけのエネルギーがあったといえるかもしれないし、病み上がりの肉体にとって一日にできることの総量はそればかりということであるかもしれない。