安部公房の『榎本武揚』を読んだ。

いかにも伝記物のような表題があたえられていながら、その実は何重にも入れ子になった証言の織り合わせであって、およそ客観的な叙述というものは意図的に排除されている。歴史を語る言葉とは願望によってフレーミングされているもので、ひとはおよそ信じたい歴史を信じ、それに執着するということが主題化されているようだ。ひとり榎本が、旧時代と新時代の荒い二分法の外に抜け出して呼吸をするが、その呼吸法を知らない者にとっては、彼は変節漢にほかならないというジレンマをすこし滑稽にも描いている。

過去をほうむるのに、過去の方法をもってしたのは、やはり失策だったな。忠誠をつくせば、つくすほど、憎んでいた過去の迷路にまよい込んでいくだけのことじゃないか。その土方君の後に従った、浅井君の悲劇も、同じこと。過去の恨みを、忠誠と思い違えてしまっただけの話さ。[..]ナポレオンは英雄だった。今の話のつづきで言えば、過去と闘い、過去を倒した、大英雄だったのだ。しかし、皇帝になってはいかぬ、それでは尻尾をくわえた蛇みたいに、またぞろ過去の腹の中におさまってしまうことになるだけだ。そして、事実、このベートホなにがしの音楽は生き残ったが、ナポレオンは、セントヘレナで死んでしまったというわけさ。 (p. 341-342)

どのドグマに依って生きるかを悩むことを止めよ、と榎本は説いてみせる。しかしその精神改造が容易ならざることは、明治に生きない者にとっても同じことである。反榎本の告発を読むにつけて、ぼくはたしかに彼を憎々しくおもったし、土方歳三の在りかたこそ筋を通した “かっこういい” ものとおもって小説を読んだのである。しかし読後にかえりみて、過去の規範で生を制限するのは、無為なることよと身につまされるにつけて、なにやら教訓を注入されたようにもおもわれる。

それら主張を押し付けることはなく、それどころか入れ子になったストーリーテリングの構造のなかにあって、この半架空の榎本伝は困惑や無関心で受けいれられるということがおもしろい。もとより伝記というよりは創作によるものとわかって手に取って、期待通りの技工を味わう、たのしい読書をした。