国籍システムの不備が悪意を持って運用されているという主題設定と問題提起に優れたものがある。

養子として合衆国にやってきて、そこで長く暮らしてきた人間が、手続きの不備をもって「見知らぬ母国」に送り返されるという理不尽さは現存する。人種マイノリティがその標的にされる傾向があり、軽犯罪の履歴があるといっそうその危険は深い。その社会的不正義をある虚構の家族にせまるようにして描こうとする試みがこの映画である。

それとは独立したドラマ上の問いとして、映画の目指すリアリズムはアントニオの感情をよく描けていたか。そうではないようにみえてしまった。

はじまりこそ国家的悪意に根ざしているとはいえ、状況を悪化させるいくつもの過ちをアントニオ自身もまた犯している。彼の精神的エネルギーはしばしば誤った方向に向かい、それが彼の脆さとして提示されるのだが、それは最後に解決されなかった。というより、いちどは解決されたようにみえたものが、唐突にひっくり返されて幕切れとなった。そこにおおきな混乱がある。

アントニオは、自分ひとりの力だけで苦難を克服しなければいけないと思い込んでいる。それはもとより不可能な試みであるから、かかる負荷に呼応した歪みが彼の人格の節々に発現している。

彼は嘘をつかない能力を欠いている。養母は死んだと嘘をつき、盗みはしていないと嘘をつく。これらはついた瞬間に嘘とわかる嘘と扱われている。そのうえ実母の記憶はないという嘘も数えるにあたって、虚言を癖として持つ人格が立ちあがる。これは彼を望まざる方向に導く悪癖である。

自分の求める論理をみずから補ってひとの話を聞かない独善的な態度も備えてしまっている。たとえば、本当は自身と母はともに虐待を受けていたのに、それを母は自分が殴られているのを黙ってみているだけだったという説明に彼は巧みに変換する。また養母スザンヌが判事に嘆願をしてくれるよう対面で頼み込むのだが、彼女の無言を拒絶の意思表示だと先取りしてひとりで失望する。本当は彼女はやってきてくれるのに…。

制度の不正義に、たったひとりで立ち向かう必要はない。キャシーはそれを支援するし、最後にはスザンヌも、警官のエースも支援にまわってくれる。 ICE の友人は、最後の最後までそれとなく脱出路を用意してくれさえもする。そのようにして、社会がアントニオを受け入れているということを、アントニオもまた受け入れることが待たれる。

筋書きがそう用意されているからには、より和解に満ちた結末が描かれることを期待せざるをえなかった。しかし最後の決断は、空港に救いにきた家族の意思をないがしろにする、独善的な行為にみえた。

家族がふたつにわかれるというアイデアが、パーカーの一族の過去に由来していることははっきりとしている。しかしアントニオの状況は、ベトナム戦争から逃げて舟で渡航する状況とはあまりにも離れていて、その対比は十分に機能していない。かえって、家族が一緒にいようというときに、そうするべきか否かを決めるのは家長としての男性の判断である、という誤謬が描かれていないかとおもう。

男らしくあろうとする態度がかえって男を苦難に追いこんでいること。男の想像力の孤独なまずしさ、それは最後まで変わらない…。そういうことにしてしまっていいのだろうか。そこにドラマの不備を感じて、最終ショットでカメラがばらまく悲壮な情感は覚めた目で眺めるほかなかった。みずから救いを手放して身がもだえるほど苦しむのであれば、救いを手にすることを自分に許せばよかったのではないだろうか。

ドラマから離れた部分では、社会に必要な存在であるかどうかをコミュニティが承認するという考えに、アメリカの定義する社会のありかたがのぞいているようにみえた。

アントニオにとってのただひとつの活路は、教会活動かなにかを通して彼が得たコミュニティの助けを借りることだと弁護士が語る。

教会に貢献することは、無償の営みである(そのはずだと僕はイメージする)。アントニオがタトゥーの料金を取らないことも、パーカーがそのお返しに彼をパーティーに誘うことも、また無償である。無償の奉仕を通したひととひととのつながりが社会をつくるという思想。この映画はそれを語ってもいるようにおもわれる。

血縁や宗教による非経済的な連帯、それこそがコミュニティであり、そのようなコミュニティが必要とする人間は存在に値する。法制度はそのように規定している様子である。社会にとってある人間が存在に値するかという命題に詭弁があることとは別に、コミュニティを社会機能としてとらえる態度は悪くないことのようにおもえた。