新国立劇場に『エンジェルス・イン・アメリカ』の第二部を観にいった。第一部から二日後の、夕方の上演を観た。

プライアーの前に天使が降りてきて第一部が幕切れとなったあとで、しかし登場人物の誰もまだ恩寵を受けてはいない。そこからどうやって「アメリカの天使たち」という表題を導くのだろうといっさい予断のないモードで待った。

天使が運んできたのは恩寵ではなく、神なき世界で人間は歩みを止めるべきだとする呪い(のように聞こえる指令)であった。預言者と名指されて困惑するプライアーは、病身をひきずりながらニューヨークをさまよって、「元カレの今カレ」をのぞき見たり、「元カレの今カレの家族」であるモルモンの信仰者に出会いもする。そのいっぽうでプライアーの前から逃げ出した「元カレ」ルイスは、その「今カレ」のジョーとロイ・コーンのつながりを知って激高するし、アフリカ系でクイアのベリーズは夜勤先の病院に担ぎ込まれてきたロイ・コーンを、憎々しさと慈愛の入り混じった態度で介護する。そんな具合に、第一部で提示されたキャラクターたちのあいだにより細かな人間関係が張り巡らされて、しかもいくつもの筋書きは必ずしもひとつのゴールに収斂しない。

迷い苦しみながらアメリカでもがく魂たちのありさまが切実に描かれている。ユダヤ人であること。同性愛者であること。有色人種であること。病人であること。モルモン教徒であること。共和党員として働いていること。幻覚に囚われて夢から覚められなくなること。友人の苦しみの前で無力であること。上司からの期待に応えられないこと。愛する人への献身が受け入れられないこと。考えることを止めて足を止めてしまったほうがずっとましなのではないか? そういう猜疑心を打ち破って、前に進もうとする意志を全面的に肯定する力強いメッセージが最終盤に提示される。それは戯曲が書かれた時代、レーガン大統領の象徴する80年代が終わって先の知れない世紀末に向かっていく時代にとって人類を祝福する心強い宣言であったことと同様に、明るいとも暗いともとれない未来にただ転がっていくしかない迷える魂を後押しする普遍的な勇気の声明であるのだと受け取った。

第二部はプロローグにボリシェヴィキの重鎮による新しい理念の到来を期待するスピーチが配されて、エピローグには「理念がなければひとは生きられないが、ひとが生きれば理念がそこに生まれる」という逆説的な意見が説得力をもって語られる。そのエピローグは 1991 年のセントラルパーク、ベセスダの泉に舞台が設定されて、ベルリンの壁の崩壊とゴルバチョフによる緊張緩和によっておとずれた、そこはかとない晴れやかさの気分がある。

いっしょに劇を観に行ったパートナーはこれについてこう考えを話してくれた。ソビエト連邦は滅びたけれど、それは共産主義の全否定ではない。それはソビエト連邦の逆が正解であることを証明しない。過去をまるっきり清算できることはない。未来はいつも、こちらが足を踏み出そうとする前に向こうからやってくるけれど、過去をみつめてみずから歩み直すこともできる。それはこの作品にふさわしい要約であるとぼくもおもった。

ロイ・コーンの姿が、第一部に引き続いて深く印象に残った。この男が陳腐な悪の肖像であることは他の登場人物たちの述べるところであるし、歴史上の人物としての評価もおそらくそのとおりなのであろう。しかし同情の余地もなく権力を振り回していくつもの不正義を犯したこの男は、感傷的な台詞を吐いて倒れるわけでもないのに、悲哀に満ちてみえた。大きな声で横柄に振る舞う彼のありさまは、ただ無神経なマッチョマンであるというよりも、名声という幻覚でみずからを騙し続けた哀れな魂のようにみえる。みずからがエイズに苦しんでいるにも関わらずなお有色人種と同性愛者を悪し様にののしる様子は、ユダヤ人であるという自分自身の変えられない属性をなんとかして遠ざけようとするもがきのようにみえる。自分の力だけで自分を救済しようとしている。それは無為にして哀れであるが、拭えない孤独感には真実味がある。