東京・春・音楽祭に、毛利文香さんと景山梨乃さんによるバイオリンとハープのデュオを聴きにいった。
ミュージアム・コンサートと題されていて、会場は国立科学博物館の常設展地下二階。哺乳類の化石の展示室で、天井からは大型海洋生物のおおきな化石を吊り下げて、周囲には偶蹄目と奇蹄目の先祖の化石を並べている空間の真ん中に即興のステージが作られていた。まずこの雰囲気がいつになく珍しく楽しい気分をいやおうなく持ち込んでいた。全席自由とされていた座席はすべて埋まっていた。
モーツァルトの「バイオリン・ソナタ第21番」から。ピアノをハープに置き換えたアレンジで、事前に聴いた別の奏者の録音では短調の悲しげなさまが前景にでていた印象だったところ、この日の演奏にはむしろ明るげな霊感があった。はじめてみる毛利さんの演奏の所作は、身体をおおきくつかってもうひとつの楽器とのインタープレイを試みるといった様子で、恍惚なソロを弾くときにも、伴奏にまわるときにも、表情にも正中線の向けかたにも体重移動にも、音と対話しながら音楽を組み立てていくようなありかたが伺われた。気持ちのいい演奏だった。ついバイオリンに意識を集中させてしまって、ハープがメロディをつとめる箇所でもついバイオリンのほうを聴いていた。あとになって、ハープがピアノの代わりにどういう効果を持ち込んだかを聴き直して確認したいと願った。せっかくの珍しいデュオのアレンジだっただけに、すこし惜しんだ。とはいえ、いやらしいところはひとつも感じなかったことは幸福である。
毛利さんがいちど退場して、マルセル・トゥルニエのハープ曲「イマージュ第四組曲」がはじまる。これは印象派の雰囲気があって、音の粒がメロディとしてやってくるというより、音の塊がそれ自体は通り過ぎないままその場で変成し続けるような感覚があった。響きとリズムが渾然一体となって音が像を結ぶようで、ずいぶんモダンな雰囲気もある。
続いて景山さんが不在となり、毛利さんによるバッハ「無伴奏バイオリンのためのパルティータ第三番」となる。厳かなメロディが整然として心の平安をもたらすというほかに、天井から大型海洋生物の骨が会場を見下ろしていることも荘厳さを加えていた。会場の照明は、博物館の常設のものであって特別の演出ではないはずとおもうのだが、強く注意を惹かない間隔で明暗を静かに行き来していて、演奏の盛り上がろうというところで光がさりげなく明るさを増すようなことがあると、恍惚たる気分となった。
インターミッション中は、固まりかけた背中を動かしながら歩いて展示を眺めた。
後半の冒頭は、ドニゼッティの「バイオリンとハープのためのソナタ」にテデスキの「セレナード」と小さな美しい作品が続く。これらは毛利さんがハープとの演奏のための調査をして発見したものだと話していた。このふたつが、とりわけ「セレナード」が、もっとも深く印象に残った。すこしロマンチックで、通俗的なところまである素朴さが、ゆっくりと響かせる演奏によって感傷を誘った。そしてその感傷がすごく好きだとおもった。あらかじめプログラムの予習をするために聴いてお気に入りとなっていたこれらを、めったにない場所で聴くことができたことは幸いである。
イベール「間奏曲」は、プログラムを読み落として事前に聴くのを怠ってしまって、うまく聴くことができなかった。そのあと、サン=サーンスの『サムソンとデリラ』より「あなたの声に心は開く」はオペラのアリアで、バイオリンが歌う。台本の意味を伴って聴いたことはないながら、痛切な叫びとも堂々たる絶唱ともいえる気持ちのいい響きが届けられた。素早く運指するのとは反対の、少ない音を長く吐き出すように響かせる技術にらんらんとした。
プログラムの最後もサン=サーンスで、演目は「バイオリンとハープのための幻想曲」という。これも構造を伴うインプットができていなかったから、いくぶん散漫に聴いてしまったことは否めない。あるいは「セレナード」の余韻が残っていて注意力を落としていたのかもしれない。しかし終盤にバイオリンがにわかに盛り上がりを増して技工をみせるところはおもわず聞き惚れるものであった。
毛利さんはオペラを好むことを繰り返し話していて、アンコールでもオペラ曲を取り上げると話した。作曲家の名前も作品の名前も、運悪く聞き漏らしてしまった。とはいえ、歌心のある演奏が気持ちよかったことは「あなたの声に心は開く」に同じであった。
桜のちょうど満開というところであったけれど、数日来の雨がこの夜も降っていて、並木道には向かわずに帰路についた。