上野で催されている東京・春・音楽祭に小さなプログラムを聴きに行った。マーラー編の弦楽四重奏曲「死と乙女」に、最晩年の弦楽五重奏曲のふたつ。
バイオリンが10人、ビオラとチェロが4人ずつ、コントラバスが1人というおおきく贅沢な編成だった。すべての楽器がひとつの主題を鳴らす合奏はいきおいよく、しかも各パートひとりを除いて手を休めるほど穏やかなピアニシモによっていっそうダイナミズムが増幅されていた。首と身体を揺らしながら音を鳴らすプレイヤーたちは、それでいて第一バイオリンの所作に目を向けることを怠らず、注意深いインタープレイをしていた。
どちらの演目も馴染み深いものではなかった。「死と乙女」は、第一楽章冒頭の鋭いテーマが印象的で、そのままスッとその先の演奏に引き込まれてしまう。予習をはじめてすぐに耳で覚えたのとおなじように、演奏がはじまってから最終楽章までじっと聴いた。第二楽章の途中で、すこし前に書いて、完成させられないままほったらかしにしていたプログラムのことを思い出して、あるいはこうやれる、こうもやれると想像をいざなわれる感覚があった。こういうと音楽への集中を欠いているようだけれど、音は完全に耳にはいっていた。抽象的な音が脳のなにかを刺激したのかとおもうと不思議な気分がする。
弦楽五重奏は、いくらか難しいと感じた。単に十分聴き込むことができていなかったために、構造をうまくとらえられなかったということはありえる。第三楽章のスケルツォにいたって、キャッチーな旋律があらわれてようやく集中力を取り戻せた気がする。とはいえすこし注意散漫になっていて、歯が立たなかったという悔しい余韻を残した。これが作曲家の最晩年の作品であるということは、帰り道の電車のなかで知った。もうすこし探求してみたいとおもった。
会場は東京文化会館の小ホール。キャパシティは 500 名強ばかりで、たしかに小さなホールだった。楽団との距離もいつもより近く感じたのも、単にそう感じただけではなく、たしかに近かったのだろう。プレイヤーが20名も登るとほとんどいっぱいになるくらいのステージをゆるやかな扇形に囲む客席は、空間に余裕をもってレイアウトされていて座席のあいだの移動がとても楽だった。中央ブロックの席は、気の利いた映画館のように前の観客の肩のあいだからステージがみえるように配慮されてはいなくて、いつもより背筋を伸ばして観た。左右のブロックは、ステージからの距離はほとんど変わらないながら、空席もいくらかあってよりのびのびと鑑賞する環境がありそうにみえた。次の機会があればあちらにも座ってみたい。
平日の仕事が終わったあとの夜に穏やかな会場で弦楽を聴くというのは、代えがたい贅沢だった。交響曲でなくて室内楽を聴く日だったこともますますその印象を深めている。いい趣味をみつけられたなと嬉しい思いもある。