スティーブン・スピルバーグの新作を劇場に観に行った。脚本にトニー・クシュナーが参加している作品を観たのははじめてになる。
ある映画好きの少年が青年に成長するまでを描いている。これは監督による自伝にあたると宣伝されているのだけれど、観てみたところでどうみても虚構の作品であって、自伝であることがなににどう作用しているのかはまったくピンとこなかった。映画少年の個人的な物語が、すこし陳腐といってもいいやりかたで描かれている。もっとも、陳腐であることは不出来であることを意味しない。ティーンエイジャーとして誰もが思い悩むように、家族との関係のぎこちなさと学校での居心地の悪さ、かけがえのない友人との関係、働き始めることの苦しさと高揚感を等身大に描いている。
とはいえ、はじめて観にいった映画で鉄道と自動車が大クラッシュすることに執着をおぼえて、みずからそれをフィルムに捉えなおそうとする逸話は、あきらかに監督自身の特異な執着にオーバーラップする。いってしまえば主人公のサム・フェイブルマンと監督のスティーブン・スピルバーグをつなぐ糸はそれだけであるのだが、そうして自伝的な伝記映画であることを示唆してしまうことで、いくぶん尊大さも紛れ込んでいるようにおもう。ボリスおじさんがサム少年をつかまえて「おまえは芸術に奉仕する宿命を持っているのだ」といい、サム少年がそれに怯えてみせるシーンは、他の映画であれば特に引っかかりもなく観ることができただろうが、こと自伝を示唆してしまったことによって、うぬぼれていないようにみせようとするうぬぼれが生じていないか。いくぶんわざとらしい仕草にみえた。
父親が IBM に雇用されるというので、親友のベニーとアリゾナで別れてロサンゼルスに越してから先は、フェイブルマン一家から焦点がすこし離れて、サムを中心にしたハイスクールの人間関係が描かれる。スクールカーストの上位にいる男子学生からは反ユダヤ主義のおおいにこもったいじめを受けて、そのいっぽうではそれを痛ましくおもうようにしてすこし変わった女子学生とのロマンスも描かれる。
いじめっ子のローゲンが、サムの撮った映画をみて奇妙な感情の爆発をみせる筋書きは卓越していた。その映画はローゲンを、ギリシャの英雄さながら完璧な肉体と完璧な色気をまとった姿で映し出している。サムからしてみれば、自分をいじめた相手を偶像化しているようで、これは観客にもピンとこない仕草である。特にその制作過程での葛藤が示されることはないから、どうしてサムがそういう映画を作ったのかは、ローゲンがふたりきりの廊下でサムに激しく抗議するまで明らかでない。サムの答弁はいくらか凡庸だから注目する必要はないが、完璧な姿を映し出されたローゲンが、そのことに激怒するという心理こそおもしろい。なにか一般的な真実を描こうとしているのではなく、ただ彼個人の容易でない機微が表現されることによって、単なるいじめっ子の端役であったローゲンが一転して、魂をもった人間として再登場するということに、制作の不思議な采配を感じた。そのことがなにを意味していたのかはわからないが。
最後の最後に3分間だけ登場して、言葉少なだったかとおもうと一気に大声をあげて、金言めいているようでナンセンスのようでもある助言を叫ぶジョン・フォードがすぐれてよかった。いかにもアメリカの巨匠がいいそうなセリフに、デビッド・リンチが演技によってますます存在感を与えている。意味がないけど偉そうなことを端的にいわせるには最良の人選がリンチであった。登場することを予期しない配役であっただけに、いっそうたのしい気分で映画は終わった。