新国立劇場にタンホイザーの上演をみにいった。今シーズンのプログラムでは唯一のワーグナー作品である。
完璧な舞台であった。これまでに観たどの演劇よりも優れた体験を与えられたと無邪気に信じてなんの迷いももたない。オーケストラが序曲を演奏しはじめてから、ふたつの幕間をはさんで、巡礼の合唱が救いの恩寵を歌うまで、緻密な計算に疲れさせられることもなく夢中になって観た。
第二幕の歌合戦で、タンホイザーが熱情ほとばしる愛欲を歌って周囲の騎士たちが彼の正気を疑っているときに、エリーザベトがわずかな興奮をみせかけながら押し黙るところがよかった。これは録音ではわからない演技のディテールであった。
愛の本質とは熱い欲望であると歌うタンホイザーは、騎士道精神に背くのみならず、エリーザベト姫を侮辱し傷つけているのだと騎士たちは非難して、むしろ清廉な愛こそが本道と主張する。しかし純潔を志向する彼らの論法は、騎士のために恣意的に作られた男らしさのコードをなぞっているにすぎず、エリーザベトが同じように情熱的な愛を持つことを封じる機能を持っている。彼女にとっての侮辱とは、強く求める愛を歌われることではなく、処女信仰の生贄にされることとみえる。一見して騎士道的な性的規範を擁護する筋書きが主になっているようにみせかけつつ、よくみるとエリーザベトの性的開放の視点が忍び込んでいる。巧みである。またタンホイザーの堂々たるヴェーヌス賛歌もたいへん気持ちいい歌いぶりだった。
そのエリーザベトは第三幕で、タンホイザーの赦しを祈って命を落とすことになる。ヴォルフラムの求愛は拒んで、ひとりの愛した男性のために死を迎え入れる。これもまた、自己犠牲という究極の奉仕をいとわない、理想的な女性像を描いているようにもみえるし、みずからの意思で誰をどのように愛するかを決定するたくましい意思を持ったひとりの女性を描いているようにもみることができる。その両義性によって、現代の上演にもじゅうぶん耐える力強い筋書きとなっている。もしも人間の歴史のなかに、表面的には同時代の規範を守りながらも、現代的な親密さを信じて生きた彼女たちのような魂が存在するのであれば、こんなに素晴らしいことはない。そのような愛が世界中でひっそりと継承されてきたのではないか、と想像するのは、アナクロニズムであろうか?
口を滑らせてヴェーヌスベルグを訪れたことを告白してしまうタンホイザーが罵詈雑言をあびせられて、あまつさえ私刑に処されようとするときに、発されるセリフもよかった。これもまたエリーザベトの「このようなひとのためにも救い主は命を落としたのです」がそう。なんとつつましく人間の傲慢を批判する言葉だろう! 救い主が救済した魂を、もうひとつの魂にすぎない人間が裁くことに釘をさして、敬虔である。皇帝は裁きを中止して、罪人の運命をローマ教皇に委ねる。ローマ教皇はもまた彼を弾劾するが、最後にはその裁きも無意味であったことが宣告される。神の恩寵がもたらされるのである。枯れた杖に緑が芽吹く。地獄の炎に焼かれる罪人の苦しみはあがなわれる! エリーザベトの祈りは教会ではなく神へと向けられ、その信仰のために天国における彼女の座と、地上における罪人の座がもたらされる…。
ヴェーヌスベルグはその名を口にするのもおぞましいこの世の地獄であるとされるが、純潔を名乗る騎士と貴族らが、肉欲とむすびついたその性的機能をはっきりと知覚していることがおもしろい。性に関心のない者は性の技法も地上の娼館も知るはずがないときに、ヴェーヌスベルグを訪れたこともなしに地獄と呼び指す者たちは、逆説的な性への強い関心が漏らしているようだ。教皇までもがそうであるから、これはずいぶんな風刺とみえる。また公式プログラムによると、第三幕でヴォルフラムがエリーザベトへの思いを表白するアリアは、彼女を金星にたとえているのだという。おお! 彼の心にもヴェヌスの肉欲は根ざしているのである!
そのヴェーヌスベルグにふたたび堕落する寸前のタンホイザーが、すでにそこにはいないエリーザベトの名前を聞いてわれに返るところもよい。バイロイト音楽祭での上演にも繰り返し出演しているステファン・グールドさんという大柄な歌手はここまでにも強力な存在感を示していたが、最後にこのようにしてエリーザベトの名前を絶叫するのは耳の快楽そのものだった。誰かやなにかの存在によってではなく、それを指し示す言葉だけによってでも、人間は生き返ることができる。そういう表現を好むところが自分にはあるのだろうと発見もした。
ところで、バイロイト音楽祭といえばワーグナーの祝祭とは知っていたものの、動画共有サイトにアップロードされた2019年の上演をみるに、スラム街にゴミ袋を携えたような姿のタンホイザーに非難轟々といった様子だった。ここでもステファン・グールドさんが歌っているが、こうしてみると演出によって与えられる効果は巨大である。英語の字幕がついてそれよりも魅力的にみえた版として、1978年の映像があった。これもここに書いておぼえておくことにしよう。